key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・2』

 中国から帰国して数ヶ月後、彼はプロ試験に合格した。
 全勝だった。
 その年の受験者の中には、元学生三冠などもおり、もちろん院生時代の仲間達も含まれていたのだが、昨年とは違い、あまり無駄な気負いや拘りを持つことはなくなっていた。見つめるのは盤面だけでいい。そのことをYから教わってきた彼なのである。
 彼と元学生三冠の他は星の食いつぶし合いになっていたため、彼の合格は、試験の終了を待たずに決まった。
 合格の決まったその日。彼ははやる気持ちのままに中国棋院へ電話をかけた。
 電話を受けたのは、彼も見知ったある青年で、彼が名乗ると親しげな声で何事かを話し掛けてきた。それを適当に受け流しながら、Yへの取り次ぎを頼む。棋戦で不在かも知れないと思いついたのは、その待ち時間のうちだった。そんな風だったから、受話器越しにYの声が聞こえてきたときには、頭に血が上ったようになっていた。
 何処かふわふわとした気分のまま、合格を報告した。
「おめでとう」
 別れ際のことが思い出され、彼は受話器を持ったまま、何も言えなくなってしまった。
「成績はずっと日本棋院のサイトで見せて貰ってたよ」
 その一言が嬉しくて堪らない。
 自分のことがもう既にYの中で思い出として処理されてしまっていたらどうしようと思っていたのだから。
「じゃあ、今度会うのは対局かな」
 高段の彼と、その頃の自分との隔たりを思い、彼は苦笑するしかなかった。
「何時のことになるのか……」
 そう自嘲すると、
「まあ、その内いつか、何処かで会うだろう」
 彼は以前と変わらぬ軽い調子でそう言う。
「もうその頃には、君はオレのことなんて、忘れているかも知れないけどな」
「忘れませんよ」
 彼の言葉に、Yはただ笑う。
「忘れたりしません」
 本当は叫びたいくらいの気持ちを抑え、彼はそう告げた。
「どうもありがとう」
 Yの調子は、彼の気持ちとは裏腹に、あくまでも明るい。
「本当に、忘れませんから」
「解ったよ。わかった」
 彼はYに呼びかけた。
「オレのことも、忘れないで下さい」
「忘れないよ」
「約束ですよ」
「うん。忘れない。忘れたりしないよ」
 些細な言葉だったが、彼はその言葉に何も返せなくなってしまった。
 Yと別れてから一人で静かに育んできた思いが、一気に増殖し、ものすごい速さで体中を駆けめぐり、溢れそうになる。その思いに彼はなすすべもなく翻弄されてしまいそうだった。
 ややもすると他の言葉が口から出そうになるのを必死に抑えつつ、また後日の連絡を約束して、電話を切った。

 家族から「合格のお祝いを」と言われ、彼は迷わず(それでも一応はおずおずと)「自分専用のパソコンが欲しい」と、言った。「棋譜の整理や情報収集をしたいから」と説明をしたが、実のところはYとのつながりが少しでも欲しい。それだけのことだった。
 それまでの苦労をおもんぱかってか、その希望はすぐに受け入れられ、数日後には彼の部屋に手頃な値段のデスクトップ型パソコンが運び込まれた。ネットへの接続もすぐに行われた。
 その後、彼は人生初のメールをYに宛てて書いた。