key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

遠い星1

 帰ってきてしまった。
 リムジンバスが成田空港の乗り場から走り出した途端にそう感じていた。
 車窓から見える町並みは、二ヶ月の間に馴染みかけた北京のものとは随分違う。懐かしいはずの風景なのに、何処か身にそぐわない感じがして、彼はしばらくの後にそこから目を反らすようにして俯いてしまった。
 何気なく太腿に置かれた腕が目に入る。
 だらりと投げ出されたまま、掌が上を向いていた。
 彼は四時間前に、北京の空港でYと握手をしたことを思い出した。
 Yは彼の手を強く握って「プロ試験頑張れよ」と言った後、「君はもう大丈夫だ。自信を持てよ」と、右の二の腕をぽん、と、叩いてきた。じっと見つめていると、その時の彼の握力の強さや、絡んだ手が少し汗ばんでいたこと。叩かれた腕の衝撃などが思い出される。
 ああ。
 と、胸の内で声を漏らし、彼はきつく目を閉じた。
 日本に帰ってきてしまった。
 プロ試験の一週間前に帰国する、というのは、父親から電話を貰った時に、自分で決めたことだ。中国棋院で勉強していたのも、元はと言えば、プロ試験に備えて自信をつけたかったからだ。日本でプロになることが今の彼の最大の目標で、この日の帰国も納得してのものだったはずだ。チケットも自分で手配した。なのに、なぜこんなに感傷的な気持ちになるんだろうと思う。
 梅雨が明けたばかりの七月の東京の日差しは、窓越しのせいか自棄にきつく感じられた。

 自宅に帰ってみると、誰もいなかった。
 平日の日中なので家族はそれぞれの場所で役割を全うしているはずだった。父親は仕事を休んで迎えに行こうか、と言ったが、彼はそれを断った。出かける時にも普通に出かけたのだ。帰るからと言って晴れがましいものは何もいらないと思った。
 トランクを持ち上げながら階段を上り、久しぶりに自室のドアを開ける。
 室内はきちんと整頓されており、自身の不在を感じさせなかった。
 彼はトランクを少し引きずったあと、ベッドに腰を下ろした。
 柔らかい色合いのベッドカバーをそっと撫でた。表面のワッフル加工が掌にざらざらと当たる。303号室の、使い込まれ薄汚れたようなそれとは似ても似つかない。清潔な布の、いい匂いがする。
 あの部屋の少し乾いたような空気、部屋に漂う独特の匂いが思い出される。部屋の中はあまり清潔ではなく、ベッドはいつでも少し乱れていた。それでも何処か生活の香りがしていた。彼はあの部屋が嫌いではなかった。帰国した今となっては何もかもが懐かしかった。
 そして何より懐かしかったのは、その部屋の主だった。
 バスの中でしたように、彼はぼんやりと自身の掌を見つめていた。
 大きい手だったな、と、彼はYの手を思い出していた。
 二ヶ月間、ほぼ毎日あの手と向かい合っていた。いつでも目の前にあったのに、その手に触れたのは、その日が初めてのことだった。見ていた時には気にしていなかったが、Yの手はごつごつと骨張っていて、大きかった。
「また来いよ」
 手が離れる時に、Yはそう言っていた。彼は「また来ます」と言葉を返した。
 Yの手の名残を求めるように、左の手で、右の掌を撫でる。「また来ます」という言葉には嘘はなかったが、本当にそんな日は来るのだろうか。その時の伊角にはわからない。
 「もう会えないかも知れないな」と言う考えが、突然のように頭の中に落ちてきた。すると途端に胸が締め付けられるように痛み出した。
 Yの言葉が幾つも思い出され、それらの言葉が勝手に頭の中で疾走を始めた。低すぎもせず高すぎもしない声が、彼の体中に満ちてきた。叩かれた名残を求めるように右の二の腕に触れた手は、その内彼の身体の別な場所にのばされた。
 鼓動が激しくなるのに連れて、ヘッドフォンをつけて大音量で音楽を聴いている時のように、身体の中がYの声で一杯になった。もうこれ以上は詰め込めない、溢れる、と頭の何処かで感じた瞬間に、自身の手の中ではじけるものがあった。
 生ぬるい白濁した粘液は彼の掌ですぐに冷たくなり、生臭いような甘いような独特の匂いを立て始めた。彼は同様に冷えた頭でその手を見下ろした。
 何をしているんだろう、と、思った。
 Yを思い出しながら、達してしまった。しかも、今までに経験がないほど身体がすっきりとしているのが自分でもわかる。身体の奥の方に溜め込まれていたものまで、すべてできってしまったような爽快感が、その時にはあった。
 彼はその掌を汚いと思いながら、拭き取りもせずにぼんやりと見下ろし続けていた。
 あの人、男の人なのに。
 あんなにオレによくしてくれたのに。
 いい人なのに。
 汚してしまった。
 どうしよう。
 オレは。
 オレはもう、日本に帰ってきてしまったのに。
 今頃になって、気付くなんて。
 指先に付着した粘液は乾き始めていた。掌に少しだけ残っているとろりとしたものに、ぽつりと涙が落ちた。
 オレ、あの人が好きだったんだ。
 汚れていない左の甲で、彼は顔を拭った。






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またイニシャルトーク。お試しっぽいな。後で改稿するかも知れない。