key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・18』

『楊海さん、電話!』
 いきなりドアを開けてそれだけ告げると、楽平は乱暴にドアを閉めて立ち去った。呆気にとられた楊海の耳に、彼の走り去るばたばたという足音が聞こえてくる。
 ふと目を向けると、伊角は長考中だった。
「あ、どうぞ行ってきて下さい」
 ちらりと目を上げて言うと、伊角はすぐに長考に戻った。夢中になっているときには、いつもそんな感じだ。一ヶ月も同居していると、流石にそのくらいは分かってくる。
「……そんじゃちょっと行ってくる」
 楊海は大儀そうに立ち上がり、部屋を出た。
 電話、と言われても相手のあてはなかった。最近は親とも連絡を取っていないし、わざわざ電話で連絡をつけたい相手もいない。仲間との交流はメールが主で、そうでなければ棋戦で出くわしたときなどに話をする。それで用は足りていた。
 ペッタペッタとサンダルの音を鳴らしながら面倒くさそうに電話に近づき、その時の気分のままに『はい、楊海』と言うと、「オレだ」と日本語が聞こえてきた。
 楊海は一瞬目を見開いた。
 彼と日本語で話し、いきなり「オレだ」などと不遜な話し方をする人物を、彼は一人しか知らない。
「どうも、お久しぶりでした」
「ああ、本当にな」
 報告はメールにします、と、宣言したものの、メールはろくに書いていなかった。おそらく用件はそのことについてだろうと推測はついたものの、やはり特に言うべきこともない。楊海は口をへの字に曲げたまま、しばらく沈黙していた。
「……どうですか。最近」
 無い知恵を絞り出すようにして、そう話し掛けた。
「お前に心配されるようなことは何もないよ」
 緒方の口調は落ち着いているが、それがかえって、抑えられた怒りや苛立ちを感じさせる。楊海は心中で「うへぇ」と呟いた。
「ところでどうなっているんだ。そっちは」
 やはりそのことか、と、楊海は思い、なんとなく咳払いをしてみた。
「メールをよこす、と言ったわりに、音沙汰が無いから、どうしているのかと思って」
「ああ、……はい」
 取り立てて報告できるようなことはあまりないのだった。
 この一月、伊角も楊海もひどく単調な生活をしていた。否。楊海は自身の棋戦などが入っているため、伊角に比べるとまだ起伏に富んでいると言えた。
 朝起きて食事を済ませると研修、昼食を挟んでまた研修、夕食後は訓練室の閉鎖まで居座り、シャワーを浴びて寝る。楊海が許せば、時々は夜更かしをする。しかし、していることは対局か検討だった。
 伊角の生活はそれだけである。楊海の不在時も、同じような生活をしているようだった。
 一度か二度、楽平に『たまに外に遊びに行こうぜ』と言われ、無理矢理のように街に連れ出されていたが、ほかに何処かに寄り道をするでもなく、楽平を伴って夕食に間に合うように戻ってきていた。
『別に屋台で適当にメシ食うんで良かったのに』
 と、楽平がぶつぶつと文句を言っていたのを、伊角に教えてやると、
「でも、楽平の年頃であまり遅くまで遊んでちゃいけないし、飯は棋院で用意されてるんだし……」
 と、言っていた。
 伊角に悪気は欠片もないようである。楽平もやむを得ないと思ったのか、頬を膨らませてはいたが、もう不平は洩らさなかった。
『何で遊んできたんだ?』
 楊海が尋ねると、楽平は『格ゲー』と答えた。
『こてんぱんにしてやろうと思ったのにさ。結構上手いんでやんの』
『やられたのか』
 ニヤニヤと笑いながら言うと、楽平は楊海の臑を蹴飛ばして逃げていった。
『このヤロー!』
 と、怒鳴る楊海に、伊角はおずおずと「何話してたんですか?」と、尋ねてきた。伊角はゆっくりと話し掛けられる分には、いくらか北京語を聞き取れるようになってきていたが、ネイティブ同士の早口での会話には、まだついて行けない。
「結構ゲーム上手いんだって?」
 肘で小突くようにして楊海が言うと、伊角は照れていた。
「弟の相手させられるんで、一応操作は知ってるってだけですよ」
「でも楽平には勝ったんだろ?」
「今日はたまたまです」
 伊角は頬を染めて笑っていた。
 そんなこともあったな、と、楊海が思い出していると、受話器越しに「おい。どうした」と、呼びかけられた。
「まさか、寝てるんじゃないだろうな」
「寝てませんよ」
「それでどうなんだよ。伊角は」
 何かコメントしないわけにはいかなくなった。楊海はしばし考慮した挙げ句に、
「真面目な子ですね」
 と、言った。
「一日中、脇目もふらずに研修してます。ほかのことにはほとんど興味ないみたいだし、それが一番楽しいみたいで」
「ふうん」
「こっちの低段者リーグに入って対局もしてるんですが、それなりに勝ち星も挙げてますよ。今はリーグ内の中位になるかならないかって所ですね」
「お前の手応えは?」
 と、尋ねられ、楊海は一瞬の間をおいて、「そりゃ、……まだまだですけど」と、答えた。
「でも、今年はプロにはなれるでしょう。とりあえず」
 その言葉に、今度は緒方の方が間をおいた。
「……ふうん」
 先ほどとは違い、いくらか興味をそそられたような声だった。
「これまでのネックは精神面だったようなんですが、その辺は強化されてきてます。とりあえずの山は越えて、今全体に伸びてきてるところですね」
「へぇ、大した指導力だな」
 緒方はくすりと笑った。
「最終的にどれくらい伸びそうなんだ?」
「さあ、そこまではちょっと……」
 楊海が苦笑しながら言うと、緒方は「全勝合格でもさせろよ」と、突然言い出した。
「それぐらいのタマじゃないと、面白くない。……出来るか?」
 それは明らかに楊海を挑発する言葉だった。
「分かりました。日本のプロ試験で、全勝できるくらいまで鍛えれば良いんですね」
「そうだな」
「承りましょう」
「それじゃ、結果が出るのを楽しみにしているよ」
 緒方は低く笑いながら電話を切った。
 楊海が戻ってみると、伊角はもう打ち終えて楊海の帰りを待っていた。
「だいぶん待った?」
「いえ」
 伊角はふわりと笑う。心を許した笑みだった。
 楊海は彼に笑い返しながら、同時に良心の呵責のようなものを感じていた。
 ちらりと眼を上げると、伊角は楊海の手を待ちながら、思考中のようだった。 
 ――もし自分が緒方と通じていることを知ったら、この青年は怒るだろうか。以前、自分が彼のために謀をしようとしたときのように。
 ふと、そんな考えが浮かぶ。
 伊角の頭の中は、黒と白の石と、それを置くための十九路で一杯だ。彼の思考回路も盤上に描かれた線のように真っ直ぐである。人が生きてゆく上で、それが本当に正しいかと言われると、楊海はすんなり首肯は出来ない。しかし、すがすがしく思われるほどの彼の真っ当さを、敢えて踏み荒らし、歪めたいとも思わなかった。
 別に彼を騙すようなことは何もしていない。ただ、伝えていないことがあるだけだ。言う必要がないから言わないのだ。それは間違ったことではない。
 敢えて言うべきことでもねぇよ。
 楊海は自分に言い聞かせるように心中で呟いた。
 眼前の壁を一つ越えた伊角は、今突然プロ試験に参加することになっても、勝ち抜いてゆくことが出来るだろう。だから今すべきことは、余計な情報を彼に提供することではなく、一ヶ月後の帰国までにいくらかでも自信を持たせることなのだ。今は自分に頼り切っている彼が、一人前の棋士として歩んでいけるように。
 そこまで考えて、なんて殊勝なことを、と、楊海は思わず苦笑した。
 突然笑い出したからだろう。伊角も思考を止め、不思議そうな顔で楊海を見ていた。
「どうかしましたか」
「いや、なんでもない」
 そういいながら、また笑みが洩れる。伊角も釣られたように笑っていた。
 伊角といると、どうにも調子が狂うよな、と、自嘲気味に笑い、楊海は石を置いた。

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 すごくヤンスミだなぁ……。
 大型テレビの前に弟と座り、ゲームに興ずる伊角ってどうですか。こういうときはあぐらに猫背。自分で書いてて、結構も(以下自粛)……。