『遠い星・17』
「二度とこんなことしないで下さい!」
と、突然怒鳴られて、楊海は一瞬ポカンとしてしまった。
楊海が伊角と楽平を対局させた際のことである。
しまった、と、思ったときには、伊角はもう既に楽平の待つテーブルに走り寄って、自分の持ち時間から遅刻分の倍を差し引いていた。
よかれと思って画策したことだったが、伊角にとってはかえって逆効果になったのではないか、と、楊海はその後自己嫌悪に陥った。
しばらく様子を伺っていたが、伊角は終始落ち着いた様子で対局をし、危なげなく白星を挙げた。楊海はそれを見て胸をなで下ろした。
誰でも腹の立つことはあり、伊角とて例外ではない。楊海がその時殊更に驚いたのは、日頃穏やかな彼があからさまに怒りを見せたことに対して、と言うよりも、それまで自分が伊角に信頼され、懐かれている、という実感を持っていたからだった。
王星に打ってもらっただの、華松力と検討をしただのと、まるでアイドルにでも対面したかのように嬉々として楊海に報告をし、「対局をしてやるよ」というと、ご褒美をもらったかのように喜ぶ。助言を素直に聞き入れ、自分を真っ直ぐに見つめてくる、その様子を見て、楊海は、自身の提案が伊角に受け入れられるに違いない、と、思いこんでいたのである。
「楊海さんが対局まえにあんなことするから、狼狽えたじゃないですか」
伊角は笑顔でそう言った。
夜になってもなんとなく悔いを残していた楊海は、その笑顔にいくらか救われた気持ちになった。
楊海が伊角の怒るところを見たのはそれが初めてだった。
そしてそれ以降もそんな風に彼が声を荒げるようなことはおこらなかった。伊角が中国棋院を去った後についても同じである。楊海にしてみると、貴重な体験となった。