key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『so blue』3

 緒方は15の夏のことをよく覚えていない。
 「暑かった」とか「雨がちだった」などということも、「プロ試験で誰と対局したか」とか「あの対局が辛かった」と言うようなことも、自発的にはほとんど思い出せない。時々誰かと昔話をしているときに、鍵になるようなことを言われると「そんなことがあったような気がする」と思う。
 ただ覚えているのは、合格を決めた後に妙な脱力感に襲われたことぐらいだ。
「あの時の君は怖かった」
 と、白川から言われたのもずいぶん後だ。その言葉を聞いた瞬間、彼はそれが白川の個人的な感想だろうと思ったのだが、白川はその後に「みんな言ってたよ」と続けた。緒方は思わず苦笑し、そして口を曲げた。オレはそんなに必死になっていたんだな、と、思ったのである。自分の顔とは日に何度も対面していたが、彼自身はそんなことには全く気付いていなかった。
 そしてなにに対してそんなに必死になっていたんだろうと思った。
 もちろんそれ程切実に河上と寝たいと思っていたわけではない。彼女は頼めばそのくらいのことは承諾してくれた。だから彼女にしても、あの時腹を抱えて笑っていたのだ。
 ではなにかと言えば、まず、その頃の自分の停滞した感じをただなんとかしたかったのだと思う。恒例のように本命視されながら合格を逃すという事実は、彼に毎年確実なダメージを与えていたのだし、そのことが日常化されつつあるというのも、彼にとっては耐え難いことだった。だらだらとして坂を上っているのか下りているのかわからないような日々には終止符を打たなければならないと切実に感じていた。だから「そんなに格好つけてたら、普通に高校卒業しちゃうわよ」という河上の言葉は、実は語り手の彼女も投げかけられた彼も予想しなかった鋭さで彼の胸に突き刺さっていた。
 それに行洋のところを、こそこそと裏口から逃げ出すようなやり方ではなく、正々堂々と胸を張って正面から出ていきたい。そう思っていた。彼自身はほとんど意識していなかったが、そこには行洋に対する当てつけめいた気持ちも含まれていたようだった。
 その年の年末、緒方は珍しく実家に戻り、自分の家族と年を越した。
 理由はいくつかあった。塔矢家を出ようとは思っていたものの、彼はまだ未成年で、勝手に部屋を借りることは出来ない。嫌々でも両親に頭を下げて、一人暮らしをすることを承諾して貰わなければならなかった。それと、幼少時に彼を可愛がってくれた祖父が危険な状態だと少し前に知らされていた。彼が行洋に弟子入りするときにも口添えをしてくれた祖父である。愛着もあるし、結果を報告する義務も感じた。それに、塔矢家に居残ると、彼はますます疎外されてしまうような気がしていた。
 祖父は彼の合格を喜び、父への口添えをしてくれた。そのせいもあってか、緒方の転居はそれ程もめることもなく、認められた。すでに都内で生活を始めていた姉が、新しい部屋の手配をし、引っ越し等の費用については、祖父がお祝い代わりに請け負うことになった。仕送りもこれまで通りということで話は決まった。父からは一通りの嫌味とともに「高校卒業」を強要された。その程度は予想済みだったので、緒方はまた形だけ頭を下げた。
 アパートが決まったのは、二月の初旬だった。
 姉に付き添われて契約を済ませた日の晩に、緒方はそのことを行洋に報告した。
 いつもの、夕食後の稽古の後のことだった。
「お話ししたいことがあるんですが」
「なんだね」
 行洋は緒方が質問でもする気なのだと思っていたらしい。手元から目を上げなかった。
「四月から一人暮らしをしようと思います」
 そこで行洋は初めて緒方を見返してきた。
 二人はそうしてしばらく黙って見つめ合っていた。行洋の目が動揺の色を見せるのを、緒方は妙に冷静に眺めていた。行洋がなにも言えずにいるので、彼は少し得意にもなっていた。
「どういうことなんだ」
 行洋からそう問いかけられた。緒方はその言葉を予想して、答えを用意していたはずなのに、その時なぜか一拍間をおいてしまった。
「ここを出て、他に部屋を借りようと思っています」
「なぜ」
 すんなり認めるだろうと思っていた行洋が、しつこく食い下がってくる。緒方は次第に愉快になってきた。
「僕ももう16ですから、いつまでも先生のお世話になるわけにはいかないと思うんです」
 彼は気持ちの高ぶりを感じつつ、そう話をした。
「奥様がいま大変な時期であるのもわかっていますが、これからは僕が手伝いを出来ることよりも、負担をかけてしまうことの方が多くなるんではないかと思うんです」
 行洋が口を開きかける。彼の言葉を遮るように、緒方は話し続けた。
「四月からはプロになりますし、これまでのような甘えた生活をやめるいい機会ではないかと思っているんです。先生にはお世話になりっぱなしで、恩を仇で返すようなんですが、これ以上のお世話をかけるのはかえって申し訳ないので……」
「もう決めたのか」
 行洋はぽつりと呟いた。
「はい」
 行洋は黙って腕組みをしていた。
 緒方はその姿をただ観察していた。
 行洋が次に何を言うのかが気になって目を離せなかったのである。
 行洋はなかなか口を開かない。
 緒方の動悸がだんだんと激しくなってきていた。
「君がそう決めたのなら、仕方がない」
 行洋の口からその言葉が出た途端、緒方は背中をとん、と、押されたような気がした。どこか得体の知れない場所へ突き落とされるような気分だった。
「ご両親はもうこのことはご存じなのか」
「はい」
「引っ越し先はこれから探すのか」
「もう決まりました」
 予想された問答なのに、緒方はその時一言ごとに辛く感じられていた。
「どのあたりだね」
 緒方は時々つっかえながら転居先の住所を告げた。
「引っ越しは?」
「……え?」
「引っ越しをいつするかは決めたのかい」
 いつの間にか緒方の動揺の方が強くなっていたようだった。緒方自身がそのことに気付き、彼は気持ちを落ち着けるように心がけつつ、予定の時期を告げた。
「そうか。わかった」
 行洋の言葉でその時の会話は締められた。
 そのまま母屋で風呂を貰い、緒方は離れへ引き上げた。
 その晩はひどくいらついて、緒方はまんじりとも出来なかった。