key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・15』

 その日、楊海の部屋のドアがノックされたのは、午後十時になろうとする頃だった。
 訓練室が閉められてから手続きにいったと考えると、妥当な時間だ。やっと来たか、と、思いながらドアの方に目を向けると、ゆっくりとドアが開き、伊角が恐る恐る顔を出した。
「よお、来たのか」
 と、声をかけると、伊角は言いにくそうに俯いて「さっきはお断りしてしまったんですが……」と、弁明をしようとする。楊海はそれを遮るようにして、「そっちのベッド使えよ」と、指示をした。伊角がこの部屋に来たと言うだけで、彼にやる気があるのは解る。余計な言葉はいらなかった。
 碁盤を見つけて嬉しそうに笑った顔が印象的だった。
 そして、楊海は、ああ、こいつはまだ純粋に碁が好きなんだな、と、思う。
 それは一時彼を微笑ましい思いにさせたが、少々複雑な感情を抱かせることにもなった。むずがゆい胸の内を隠すように辟易とした顔をして見せ、中国棋院内と303号室の生活上のルールを教えてやった。そして何気なく今日の対局について尋ねてみた。
 すると伊角は、昼間に楽平と対局し、負けたことを話し出した。
「楽平?!アイツに負けた?!」
 個人的な思惑も絡んで、楊海は思わず大きな声を出してしまった。
 伊角自身も思うところがあるらしく、酷く悔しそうにしているが、楊海としてはそれだけでは済まない。
 年齢こそ一つしか違わないが、趙石と楽平には力も態度も大きな差がある。趙石は真面目に努力することの大切さを知っているが、楽平は現在の中国棋院内では一番態度が悪い。成績こそ最下位ではないが、このまま行けば自ずから先が知れる。趙石との対局を見た限り、それほどの見劣りもなかったと思えたのに、結局そんな人間にも負ける程度の力しかなかったのかと思われたし、外国人の彼に勝ったことで楽平がまた増長するかと思うと、それも腹立たしく思われた。
 楽平にも勝てないならば、趙石になど勝てるわけがない。先日趙石に並べさせた対局で、彼が評価した点についても、まぐれと考えざるを得ない。
 それまでは気さくな態度だった楊海が、突然悪態をつきだしたので、伊角も驚いていた。
「楽平にも勝てそうもないようじゃこの部屋に置けない。出てってくれ」
 楊海は強い調子でそう切り出した。
「二子置いて」
 伊角は恐る恐る椅子に腰を下ろした。
 そして、ゆっくりと碁笥に手を入れ、石をつまむ。ごくり、と、唾を飲む音がした。伊角の表情が変わった。
 楊海の指導碁が終わったのは、数時間後のことだった。緊張はしていたものの、伊角は昼間よりは落ち着いていたようだった。
 とりあえず楽平に及ばないほどのヘボではないと言うことはわかった。
 現在のところ、力は五分。しかし伊角に分があると楊海は考えていた。
 楽平に欠けていて、伊角にあるもの。それはまず碁に対する真摯な態度と、熱心に取り組む姿勢だった。その時にも、対局自体は二時間もかからずに終わったが、その後の検討が長かった。「あそこは」「ここは」「こうなったら」「この場合には」と、伊角は次から次へと質問を繰り出し、気が付いたらもう深夜をまわっていた。「悪いけど明日は用があるから続きは明日に」と、楊海が切り出さなければ、伊角の質問攻めは夜明けまで続いていたかも知れなかった。
 そして何より伊角には、助言を素直に受け入れ、吸収しようとする姿勢が見られた。
 夕方顔をあわせた時には、多少卑屈な態度も見受けられたのだが、腰を据える覚悟が出来たからなのか、落ち着いて楊海の話を聞こうとしているようだった。
 素質があり、それを支える熱意があり、意地がある。上手く叩くと伸びる素材ではあると思った。
 翌朝、伊角を食堂へ送り出してから、楊海は緒方に連絡を取った。
 伊角の残留が予想よりも長くなった、と伝えると、緒方は、
「いつまでそっちにいる気なんだろうな」
 と、笑っていた。
「二ヶ月って言ってましたよ」
「……ふうん」
 緒方は思うところがあるようだった。
「二ヶ月後にそっちで何かあるんですか。随分具体的な数字なんで、気にはなってたんですが」
 楊海が尋ねると、緒方は「プロ試験だ」と、答えた。
「プロ試験の予選が、7月から始まるんだよ。それまでのつもりなんだろう」
「……なるほどね」
「それで?打ったのか?」
「うちましたよ。昨夜一局。指導碁でしたけど」
「どうだったんだ?」
「とりあえずこっちの低段者と互角に打ち合うくらいの力はあります。コンディションがよくないみたいですけど」
「そうか」
「あの、先生」
 楊海には珍しく歯切れの悪い口調に、緒方は「なんだ」と、訝しげに返事をした。
「実は、その、伊角くんなんですけど、……二ヶ月オレの部屋に泊めることになったんです」
 緒方は予想外のことに絶句していたのだろう。しばしの沈黙が流れた。
「オレいま一人部屋なんで、試しに誘ってみたんですよ。最初は断られたんですけど、昨夜ひょっこり顔を出してきて……」
「お前……」
 緒方は呆れているようだった。
「そんなわけで、今度から連絡はメールにしますから」
「お前のことだから大丈夫だとは思うが、くれぐれも、今回のことは悟られないようにしてくれよ」
「わかってますって」
 緒方の返事を聞かずに、楊海は電話を切った。