key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

木曜日の話

たぶん、これは需要なくてオフに出せないのでここで公開します。
そしていま確か対局日木曜じゃないんじゃなかったかな?
この話を考えた時は囲碁センターは八重洲にあったけど、いまは確か有楽町ですよね。
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 中途半端だなぁ。今更だけど。
 起き抜けのトイレで唐突にそんなことが思い浮かんだ。ドアの向こうに何となく人の気配を感じ、ドアを開けてみると、これも起き抜けで髪も乱れたままの彼女が立っていた。その顔を見るのも何度目かもうわからないくらいなので、ぞっともぎょっともしない。彼女は朝が弱くて、最初の朝からそんな顔をしていた。
 昨夜は彼女と外で飲んで、そのまま流れで彼女の部屋にきて、結局風呂にも入らずに寝てしまった。朝から仕事だ、ということは一応頭にあったのか、いつもの時間に目が覚めたものの、身体はかなりだるい。彼はそのままバスルームへ向かい、シャワーを浴びた。勝手知ったるなんとかで、自然にバスタオルを取り出し、ガシガシと頭から拭いた後で、洗濯機にタオルを放り込んだ。彼と入れ替わりに、彼女がバスルームへ向かう。彼は身支度をした後、キッチンで食事の用意を始めた。大学生の頃からの自炊生活で、食事の用意をすることに抵抗はなかった。
 テレビをつけるとちょうど天気予報が終わり、その日一回目の占いが始まった。彼は一位、彼女は最下位だった。これは話題にしない方がいいな、と思いながらそのまま見ていると、若い女性アナウンサーが、その日のラッキーカラーは赤、アロエヨーグルトが吉、と告げた。
 簡単な食事の用意を終えた頃に、彼女は首から上がフル装備の状態で洗面所から出てきた。その日の対局は昇段がかかっているのでどうしても落としたくないと、酔っ払った彼女から昨夜何度も聞かされたからか、メイクも心なしいつもより気合いが入っているように見えた。
「門脇くん、今日どっち?」
 どっち?というのは、囲碁センターなのか棋院会館なのか、という質問だ。
囲碁センター」
「一緒か。……じゃあ、一緒に出よっか」
 昨夜の馬鹿みたいな明るさが嘘のような物静かさで彼女は言い、食事を始めた。バスルームで気持ちを切り替えてきたのか、食事中はほとんど口をきかない。傍目にはぼんやりテレビを眺めているように見えるかもしれないが、おそらく頭の中はもう碁石で一杯になっている、そういう顔つきだった。
「ちーちゃん」
「なに?」
 食事を終えて立ち去ろうとする彼女を、彼は呼び止めた。
「赤いセーター」
 彼女はきょとんとした。
「この間着てたの」
「うん」
「あれ着たら」
 彼女は一瞬の間を置いて「うん」とまた言い、自室へ向かった。
 そのセーターはややくすんだ赤のモヘアで、彼は、彼女が初めてそのセーターを着てきた時に、「苺ジャムみたいな色だな」とまず思った。薄く軽いモヘアなので、彼女のグラマラスな身体のラインがわりにはっきりと出てしまうのだが、その赤い色のせいか、彼女は通常の何割増しかでかわいらしく見えた。
 いつもならたわいないおしゃべりをしながら駅まで歩くが、今日は彼女が前を向いたまま一言も口をきかずに歩いて行く。コートからちらりと見える紅い色に、彼はまた苺を思い出し、苺ジャムの匂いを想像した。
「ちーちゃん」
「うん」
「そのセーターさ」
 彼女は振り向きもせず、颯爽と歩いている。
「美味そう」
 振り向いた彼女は、頬を薄く染め、喜んでいるような当惑しているような微妙な表情で「何言ってんの」とセーターと同じような赤の唇をとがらせた。

 昔から色っぽくてかわいい女の子が好きで、やせている子よりは、少し肉感のある子が好きだった。知り合ったのは同期の紹介で、初対面から好感を持っていたのが、一緒に飲んだ時の明るい飲みっぷりがまた気に入って、すぐに好きになった。彼女の方がキャリアはずっと上なのだが、年はそう変わらなくて、話があったからか、彼女の方でも彼に愛称で呼ぶことをすぐに許してくれて、じきに伊角抜きでも食事などに行くような仲になった。
 伊角に引け目は感じていた。桜野と知り合ってまもなく、彼は伊角も交えた九星会の面々と飲んだのだが、誰かに教えられなくても、彼女が伊角のことを猫かわいがりしているのがわかった。端正な顔立ち、現役時院生トップ維持の優秀さ、真面目で適度に間抜けな性格など、彼が桜野でもおそらくかまいたくて仕方がなくなったであろうと思われたし、実際、彼自身もそうなっているのだった。
 二人がつきあっているのか、と思ったこともあったが、これもすぐに仲良くなった桜野の男友達から、それは一笑に付された。彼らによると、桜野はいいやつだが、恋愛の対象にはならないとのことだった。桜野自身は結構遊んでいて、彼らも口々にそれは話していたが、彼らの中に彼女と付き合ったことがあるものはいなかった。
「あいつの方からみても、俺たち恋愛の対象じゃねーよな」
「金ねーし」
「じゃあ、伊角は?」
 彼らは顔を見合わせて、「ペット?」と言っていた。

「慎ちゃん、好きな人いるみたい」
 と、彼女が話し出したのは、いつのことだったか。その少し前に本人から恋愛相談めいたことをされていた彼は、どう返答したものかと一瞬迷い、結果「へぇ」と知らない振りをすることにした。
「悪い女とかに遊ばれてたら、どうしよ」
 不意のつぶやきに吹き出しそうになった彼は、心底心配そうな彼女の様子を見て、動揺した。ペットどころか、やっぱり真面目に好きなんじゃないかと思ったのだ。それでも伊角に対して嫉妬は覚えなかった。彼女が真剣に伊角のことを好きで、もしかして伊角もいろいろあって彼女のことを好きになるならば、それはそれで仕方がないと思った。その頃は、過去二人の間に不意におきた事件のことはまったく知らなかったけれど。
 伊角は思いを寄せていた相手と上手くいったらしく、相談の内容は、徐々に恋愛中のあれこれに関わるものに変わった。相手は彼よりもだいぶん年上で、仕事もかなりできるらしく、おそらく恋愛についても経験が豊富なように思われた。恋愛の不得手な彼が、たどたどしく恋愛の道をたどる様子を見ていると、弟か部活の後輩から話を聞いているような気がしてきて、素直に応援したくなった。
 彼女には、彼から聞いた話の耳障りのいい部分だけを伝えてやった。
 恋人が出来た、という話に多少の衝撃は受けていたようだが、「慎ちゃんには幸せになってほしいの」と真面目な顔でいう彼女に、門脇は「君の方こそ幸せになるべき」「オレが幸せにしたい」と思うようになった。本格的にやられてしまったのだった。
 初めての夜は飲み会の流れで、場所は門脇の部屋。二人とも酩酊している中でだった。門脇はもちろんそれが初めてではなかったが、好きになった相手との初めてが酩酊のどさくさ紛れというのはそれなりに衝撃的だった。桜野自身がわりにけろっとしていたのも彼には気になった。彼女にもそれなりに交友関係があるのは、九星会の友人たちから聞いていたが、自分も彼女を通り過ぎていった沢山の男たちの一人としか捉えられていないのかもしれないと思ったのである。
 だからといって桜野にそんなことを問いただすことも出来ず、うやむやなままで二人の関係はその後も続き、今では時々外で食事をするついでに、お互いの部屋へ寄るような付き合い方をしている。客観的に見ると二人の関係は落ち着いていて、このまま同棲になだれ込んでもおかしくないように思われた。が、門脇としては、どこかのタイミングでけじめを付けて次のステップに進みたかった。そういうことをきちんと出来ないと、彼女から大人の男として認められないんじゃないかと勝手に考えていたのである。
 横を見ると、彼女はつり革に捕まり、真っ直ぐに窓の外を見据えていた。目は据わっているが、おそらく外にあるものはまったく意識されていない。今日の対局にかける彼女の気合いが隣にいながらひしひしと感じられた。実は彼自身も、彼女の手前、主張できなかったが、今日の対局は大切な一局だった。本当なら、彼女に励ましてもらいたかった。
 今日彼女が勝って、自分も勝ったら、将来の話をしよう。自分なりにけじめを付けよう。車窓を眺めながら、彼はそう思った。そう思うことで、自分自身を奮起させようとしたのだった。
「ちーちゃん」
 囲碁センターへのエレベータに乗り込んですぐ、彼は彼女を呼んだ。彼女はきょとんとした顔で振り向いた。
「今日終わったら、どっかでメシ食おうよ」
「いいよ。じゃあ、終わったら連絡して」
 お互いの部屋に泊まった翌日に、延長をかけるように誘うのはそれまで避けてきたのだが、彼女は特に不審げにするでもなく、にっこり微笑んだ。
 囲碁センターのある階に到着し、エレベータのドアが開いた。桜野は「じゃあね」といい、エレベータから一番に出て行った。高めのヒールで颯爽と歩いて行く彼女の後ろ姿に、彼は惚れ惚れしてしまった。

 待ち合わせ場所のカフェで、椅子に腰を下ろしたとたん、体中の力が抜けたような気になった。
「頑張ったなぁ。オレ……」
 思わず口から言葉が漏れた。
 気合いしかなかったような対局だった。いつもであれば、どこかで糸が切れたようになって、負けてしまっていたと思う。その日は自分の人生がかかっていると何度も自分を励まし、粘り続けてぎりぎりのところで勝ちに持って行った。
「やれば出来るんだよなぁ……」
 彼はだるそうに灰皿を引き寄せ、煙草を取り出した。火を付け、椅子に背を預けて前を見ると、桜野が立っていた。身なりが乱れているわけでもないが、ぼろぼろの風情だった。彼は反射的に背筋を伸ばした。
 ところが彼女は向かいに座るでもなく、ぼんやりたたずんでいる。彼はもしや彼女が負けたのではないかと思い、「……どうしたの?」とおそるおそる呼びかけた。
 ぎくしゃくした動作で彼女は腰を下ろすと、「勝った」とつぶやいた。
「あ?……勝った、んだ」
「勝った」
 彼女の様子は気になったが、彼は取り合えず胸をなで下ろした。
「よかったー……」
 硬くなっていた彼女の表情がふにゃりと崩れ、じわりと目尻に涙がにじんだ。
「やっと昇段できるぅ。……やったー……」
 彼女はテーブルにぺったりと伏せてしまった。そしてそのままの姿勢で「門脇くん、ありがとうね」と言った。
「なにが」
「今朝このセーター勧めてくれたでしょ。電車の中で思い出したの。このセーター縁起がいいんだよ。前に吉永先生に勝った時これ着てた。忘れてた」
 門脇はぽかんとしてその話を聞いていた。自分はそんなことはまったく知らなかったからだ。
 とりあえず彼女が来たので、二人は食事をしに行くことにした。
「あたし、今日なんとなくおごりたいなぁ。……愼ちゃん、呼ぼうか。愼ちゃんにお祝いして欲しい。あたしの昇段の」
 彼女は移動の途中でそう言うと、スマートフォンを取り出した。普段ならいくらでも呼んでくれて構わないのだが二人きりで話をしたいと思っていた門脇は、気が気でない。しかし呼ぶなとも言えないので、必死に伊角の不在を祈っていた。彼女は綺麗に調えた指先でメッセージを送信した。
 ところが伊角からはなかなか返信が来なかった。
「対局もうとっくに終わってるよねぇ」
 席に着くなり着信を確認すると、彼女は口をとがらせ、残念そうにスマートフォンを置いた。
「対局の時に電源切ったままかもよ」
「あー。よくあるもんねえ」
 昇段が決まってご機嫌な桜野は、いつにもましておしゃべりになっていた。とりあえず頼んだ飲み物が届くと、舌の動きは更になめらかになり、その日の対局のことを事細かに報告してくれたほか、伊角慎一郎という男がいかにぼんやりとしているかということを、過去にさかのぼって話してくれた。
「あれ、オーダー取りに来たっけ」
 気がついたら飲み物が届いてから一時間近く経過しており、二人の前に置かれたグラスはもう空になりそうだった。
「来てないかも」
 確かに彼らのテーブルの周囲にはオーダー票らしきものは見当たらず、飲み物以外をオーダーをした記憶もなかった。声をかけようとふと見ると、それなりに賑わってはいるものの、客でごった返しているというわけでもないのに、従業員はやたらと忙しそうに走り回っていて、声をかけても立ち止まってももらえないような状態だった。そのうち桜野は用を足すために席を立ち、やがて神妙な顔をして戻ってきた。
「帰ろう」
「なんで」
「大変なことになってるみたい。ずっと待っててもなんにも出てこないかもしれないよ」
 彼女がせかすので、彼も慌てて席を立った。その日は会計までもかなり待たされるような有様だった。
 桜野が用を足しに席を立った際、自分たちの他にもサービスを受けられない客がおり、宴会席も空きグラスがたまった状態で、店のスタッフの数がまったく足りていないままで店が営業されていることがわかったと、店を出てから教えてくれた。
「ここ、前に来たときにはもっとましな店だったと思ったのに、どうしたんだろうね」
「オーナーでも変わったのかな。……たぶんもう来ないけど」
 彼女は看板を見ながらつぶやいた。二人は特にあてがあるでもなく、とぼとぼと歩き出した。
「お腹空いたね」
 彼女の言葉に、彼はむなしい愛想笑いを返した。あんなに必死になって白星を挙げたのに、自分の決意はいったいどうなってしまうのだろうと思っていた。
「おでんでも買って帰ろっか」
 通りかかったコンビニエンスストアの店内に目を向け、彼女はつぶやいた。ハイヒールの足下が時々よろけるのは、酔っ払っているのではなくて、今日の対局の疲れのためであろうと思われた。こつん、こつんという靴音が、寂しく聞こえた。彼自身にも新しい店を探す気力がなくなってきていた。特に打ち合わせもしないまま、二人は桜野の部屋の方へ向かう電車に乗り込んだ。
「門脇君は、今日どうだったの?」
「オレ?」
「うん。聞いてなかった」
「勝ったよ」
「なんだ。早く言ってよ。よかったじゃん」
 彼女の声が突然大きくなったので、彼はどきりとした。
「ぜんぜん嬉しそうな顔してないから、落としたのかと思ってた」
「あ、ああ……ごめん」
「どうして?門脇くんも今日大事だったんだよね。……内容悪かった?」
「まあ、そんな綺麗に勝てたわけじゃないけど」
 彼は苦笑した。
「駅前でラーメン食べて帰ろうか。あそこのラーメン、門脇くん好きだったよね」
「好きだけど。……いいの?」
「いいよ。あたしも食べたいもん。じゃあ、今日はあたしのおごりね」
 桜野は彼に微笑みかけた。

「伊角から連絡来ないね」
 食事を終えて店を出たところで、彼が思い出したように話しかけると、彼女は振り向き、「そうだね」
 と、さほど気のない返事をした。
「ほんとに電源切れてたりしてね」
 先ほど寄り道したコンビニエンスストアで買いものをした袋をぶらぶらさせながら彼女は笑った。
 ゆっくり先を歩いている彼女の後ろ姿を見ながら、彼は今朝の自分の決意を形にするべきがどうか迷っていた。計画通り白星を得たまではよかったが、その後のしまりが悪すぎた。自分の責任ではないにしても、これではプラマイゼロである。そんな締まりのない日の最後にプロポーズなどして、玉砕したら目も当てられない。このまま曖昧な関係を続けていた方がいいのではないか。彼女の手にしているコンビニエンスストアの袋のように、彼の心は揺れていた。
 それでもいつかは真実を明らかにした方がいいのだ。今日決意したのだから、今日のうちにけじめをつけよう。彼は深呼吸をして、彼女に呼びかけた。彼女は後ろ手で袋を持ったまま、振り向いた。
「オレたちさ。けじめつけた方がいいと思うんだ」
 彼が言うと、彼女は小首をかしげ訝しげな顔をしたように見えた。
「……けじめ?」
 緊張しすぎて、のどがからからになり、言葉を発しようとしてつい咳き込んでしまった。
「門脇くん、……大丈夫?」
 彼女の言葉が最後まで終わらないうちに、彼は「結婚したい」と言った。
「結婚しよう」
 苺色のセーターと同じ色の唇が、ぽかんと開いていた。次に、ガコッと鈍い音がした。ビール缶の入ったコンビニエンスストアの袋が、彼女の手から落ちたのだった。
「え……」
 彼女はしばらく中空を見つめていたが、その後にうなだれた。彼は彼女の様子を気にしつつ、ビール缶を拾おうとかがみ込んだ。すると彼女も「あ」と言って、慌ててかがんだ。
「けじめってそういうのか……」
 彼女はぼそりと呟いた。
「駄目かな。オレ、ちーちゃんと結婚したいんだけど」
 二人は小声で話をしながら、ビール缶に傷がないか確認して袋に入れた。
「別れようっていわれるのかと思った……」
「なんで」
 彼は失笑した。
「だって、いままでけじめって、そういうことだったんだもん……」
 そのときかすかなバイブレーション音がした。二人はそれぞれ自分のスマートフォンを確認した。着信していたのは桜野の方だった。
「愼ちゃん?」
 彼女はそうして電話に出るなり「あたし結婚することになった」と言った。
 突然のことに驚いたのか、伊角の取り乱したような声がかすかに聞こえてきた。
「すごいタイミング。いまプロポーズされたばっかりなんだよ」
 自分のしたことではあるが、目の前で言われると、照れてしまう。彼は手にビール缶の入った袋をぶら下げて、その場にたたずんでいた。
「誰と?……門脇くん」
 名前を言われただけでやけに恥ずかしい。
「ううん。連絡したのはそのことじゃなかったんだけど−。でもそれは今日じゃなくてもいいから。こんど成澤先生の所ででも会ったらね。話すから」
 彼女は電話を切り、ふ、と息を吐いた。
「結婚、する?」
 彼がもう一度聞くと、彼女は、
「するよ。結婚しよう?」
 と答えて、彼の好きな顔で笑った。

 桜野が振り回していたからか、地面に落としてしまったからか、ビールはほとんど泡になってしまった。念のため二人でシンクに並び、慎重に栓を開けたが、炭酸ガスが勢いよく吹き出し、二人の手が泡だらけになっただけだった。それでその夜は、仕方がなく昨夜の残りのワインを二人で開け、その日も結局二人で飲んだくれた。