key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

箱庭世界の存続について

『ヴィレッジ』についてですが。
おもいきりネタバレになるので、一応隠します。
「これから見る気もない」「もう見てるから平気」という人は、開けて読んでください。
『ヴィレッジ』でググると、これがある作品のパクリだ、という話がいくつか出てくるのだけど、一番近いと言われる話については日本語訳がないのか、名前しかわからない。ただ、レイ・ブラッドベリの『びっくり箱』については、手元に萩尾望觥のマンガがあったので、一応読み返してみた。
どちらも、外界から遮断された箱庭的な世界を作り上げて、そこで平和に暮らすことを望んだ人の話である。大きな公園(国定公園とか?自然の多い、かなり広い場所)の中に、その世界が作られている。


『びっくり箱』では高層の、お城のような屋敷が一つの世界と言うことになっていて、母親と娘が孤独に暮らしている。娘は母の語る「死」や禁じられた「森のむこう」に好奇心を抱き、恐ろしい森を抜けてしまったあとには、「死」を通り抜けて生まれ直し、外界を「すばらしい」と受け入れる。自分のいた世界の小ささを知り、おそらくもう自分のいた世界には戻らないだろう。「森の外へ出る」=「死」と教えられた彼女は、自分が「死んだ」と思っているからだ。死んだ者は生き返ること(後戻り)はできない。


『ヴィレッジ』ではたくさんの家族が、村をつくって生活している。箱庭世界と外界の間には、『びっくり箱』と同様に森があって、そこには怪物がいて、立ち入ってはいけないことになっているのだけど、事情があって、誰かがそこから外へ出て行くことになる。ここでは好奇心を持って外へ出たいと願うのは、主人公ではなく、主人公と思いを通じ合わせる青年だ。青年はあることからナイフで刺され、命の危険にさらされる。主人公は、彼の命を救うために、彼らの住む村の秘密を教えられ、一人で外界へ出て行くことになる。
しかし『ヴィレッジ』の娘は、自分の住む世界が作り物だと知りつつ、それでもその作り物の世界に戻ってくる。
この違いは何だろうと言うことを、映画を見終えてからちょっとずつ考え続けてきた。
一つは愛か。
この世界は作り物で、本当は森に住む怪物などいないと知っているはずの彼女が、それでも恐怖と戦いながら、村へ戻るのは、青年への愛のためだ。
もうひとつは、主人公の娘が盲目であることと関わりがあるのかも知れないと思った。
娘には、安全である黄色も、危険な獣の印である赤も、壁の向こうの世界の様子も、壁の向こうで出会った青年の姿も、認識できない*1。自分の生活している世界と、外の世界の違いを明確に認識できない。森の向こうには「街」があると教えられてはいるが、「そこで薬をもらうように」と言付かるだけで、「街」がどのような場所なのかは教えられていない*2彼女にとっては、森の手前も外もそれほどの違いでは無いだろうから、外へ出て、刺激を受けることで、自分たちの暮らしていた世界のウソを強く思い知らされることもない。娘にとって、外界は、恐ろしい森の向こうの、恐ろしい世界の延長としか思われていないのでは。
実際に彼女は公園の周辺をパトロールしている親切な青年に出会ったので、それほど危険な目に遭うこともなく、再び村に帰ることが出来るのだが、「彼女が村に戻る」という話の成立のためには、もしかすると、彼女の目は見えていてはいけなかったのではないか。

もし娘の目が見えていたらどうだっただろう。
彼女は村に戻った後は、青年と家庭を持ち、村の年長者たちのように、村(の秘密)を守り続けるのだろうが、もし彼女がその目で外界を見ていたら、どうだろうか。以前と同じように村の生活を続ける中で、年長者たちのように、口をつぐんでいられるのか。
もしかすると、外へ出たがっていた青年と一緒に、村を出ることを選択するかも知れない。


隔離された場所で、小さな世界をつくって生活する人々の話は、そう珍しいモチーフではないと思うのだけど、話の展開として、小さな作り物の世界を捨て、広い外界へ出て行くと言うのが普通となんとなく思われていたので、娘が戻らないと話は終わらないと言うことを知りつつ、彼女が戻ってくることが、なんだか心に引っかかってしまった。


あと、彼女は自分の倒した怪物の正体が誰であるか、わかっていたのだろうか。
それがちょっと気になる。
ふくれあがる恐怖に、そんなことは考えられなくなったと思うことも出来るけど、わかっていたような気も、なんとなくするんだよなぁ。

*1:娘が多少のオーラで人を見分けていると言うことが物語の序盤で示されるが、すべてをそのようにして見分けているわけではないようだ。

*2:ように記憶している。