key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

残滓

いま、札幌の近代美術館で『本願寺展』というのをやってまして、それが明日で終わりだというので、今日見に行きました。
出がけは霧が薄くかかっていたものの、大通りにある美術館につく頃にはとてもいい天気に。お出かけ日和で気持ちよかったです。
明日が最終日だからか、それともお寺がらみだからか、もの凄い人出だったのですが、さすが歴史のあるお寺なので、おもしろいものがたくさん展示されてました。一番気に入ったのは、左甚五郎作と言われている、花と鳥の欄間。表と裏で全然違う図柄になってる。
あと、今回はお経はじめ、信長とか秀吉とか信玄とかいろいろ有名な戦国武将の書簡などもたくさん展示されてました。朱印状のほんものとか……。ほんとに”天下布武”って印が押してあった。
あと、花押って面白いなぁ。
私は実家も婚家も禅宗なので、お西さんのことはよく知らないのですが*1、仏様の絵姿の本尊というか、まあ、軸にしたものがあまりなく、文字(六字、九字などの言葉)が本尊になったものがたくさんあったのに驚きました。ただ書だけのものもたくさんあったのだけど、それだけではなく、文字の足元に台座があり、中心に書かれた文字を取り囲むように光が(集中線のように)描かれていたり。
親鸞聖人の直筆の書というのもいくつか展示されており、お経にはたくさんの書き込みがされていて、人柄の偲ばれるものであったのですが、ただ単純に”直筆である”というだけでなく、なんだか生々しさを感じてしまいました。

恥ずかしながら私は社会科という教科にほとんど意義の見いだせない学生だったので、歴史もいろいろなことを暗記しながら、全く現実とのつながりを感じられず、フィクションのように教科書を眺めていたんじゃないかと思うのですが、例えば京都へ行って古いお寺の中を歩いてみたり、今日のように、歴史の教科書の中に重要な人物として名前を挙げられている人の直筆の書などを見ると、すごく恥ずかしいのですが、その人の確かに生きていた証を見ているような気になる。その書などから、その人の息づかいというか体温のようなものが伝わってくるような気がして、その生々しさに時々はっとしてしまう。数百年という時間が経過しているのに、現在とその時代がもの凄く強く結びつけられるというか、突然距離が縮まることに戸惑ってしまうような、そんな気がするのです。

こういうものは、興味のない人にはただの”古いもの””過去の遺物”なのだと思うけれど、それでもこういうものに触れること、直に見ることでいろいろ感じられることはやはりある。意義あることだよなぁと、今日はまた改めて感じたりしたのでした。


にしても、かなの書は難しい、字が読める読めないの前に、文の配列に謎が多すぎる。ねねの手紙とか、どこからどこへ読んでいけばいいのか、全くわからなかった……。

*1:実際餅というか団子の数と積み方が全然違うくらいにしか作法の違いを知らない。