key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

chinese soup

「あなたはどうして韓国語を勉強したんですか」
 太善が楊海に尋ねてみると、楊海はにんまりと笑い、「君と話をしたかったから」と言った。
 嘘に決まっている。と、心中で呟き、太善は頬杖をついて彼を見上げ、すねたように目をそらせた。
 太善は楊海と初めてあったときのことはぼんやりと覚えている。彼はあの頃にもかなり流ちょうに韓国語を話していた。おかげで自分は彼が中国人だと気付かずにいた。それくらい板についていた。あれはもう五年前のことになる。彼はいったいいつから誰のために韓国語を覚えたのだろう。
「誰のために」と思いついた自分に、太善は少し不愉快になる。彼が誰のために言葉を覚えようと、自分には関係ない。どうでもいいことだ。
 眉間にしわが寄っているような気がして、彼は手を額に当てた。
「なんだ。すねたのか?」
 楊海の無骨な指が顎に触れ、彼の顔を無理矢理上向かせる。
「笑って笑って」
 楊海は自分も笑いながら、太善に呼びかけた。太善は冷たい目で彼の笑顔を見上げていたが、やがて外向けの完璧な微笑みを浮かべた。
「そんな作った顔じゃなくてさ」
 自分を見下ろす楊海のがっかりした表情が愉快で仕方がなく、太善はつい吹き出しそうになった。
「ほら、もっと笑って」
 太善の顎を持ち上げていた指が、今度は彼の頬をくすぐる。彼は迷惑そうに首をすくめたが、なおもくすぐり続ける指に負けて、結局笑い出してしまった。
 楊海の満足げな笑顔は見たくなかったので、太善は首をすくめたまま笑い続けた。
「なあ、腹減らないか」
 唐突な問だった。太善は笑いながら、「突然なんですか」と返した。
「もう八時はとっくに回ってるぜ。飯食いに行こう」
「どこへ」
「外だよ。そと」
「私は中華料理の店は知りませんよ」
 太善の笑いがようやく止まった。彼は大きく息を吐き、目尻をぬぐった。
「え?なんで中華料理?」
「中国人はいつでも中華料理が食べたいんじゃないんですか」
「そりゃ、ひどい偏見だな」
 太善は楊海を見上げた。
「韓国に来ていたら、韓国料理を食いたいに決まってるだろ。オレは地元の文化を尊重する主義なんだ」
 そりゃあご立派なことで、と、太善は思っていた。また笑い出してしまいそうだ。
「オレは実は食いたいものがあるんだ」
「なんですか」
「オレ、旨いソルロンタンに当たったことないんだよ」
 宮廷料理フルコースとか言い出すのかと思っていたら、意外に庶民的なものが出てきたので、太善は拍子抜けした。
「ほら、ちょっと前にドラマがあったじゃないか。『大長今』てやつ。アレで見てからソルロンタンが食いたくなってな。韓国に来るたびにいろんな店に行ってみるんだが、どうもこうオレの心にヒットしないんだよ。だから一押しの店を教えてくれ」
 熱弁をふるう楊海の姿を太善はじっと見上げていた。
「……そんなにソルロンタンが食べたいなら、私は別に構いませんが」
 楊海の目が期待に満ちたものに変わる。
「済みません。その『大長今』てなんですか」
「なんだって?『大長今』を知らない?韓国のドラマなのに?」
「済みません。そもそもテレビを見ないというか……。家にはテレビがないんです」
「なんだって?」
 楊海の目が失望と哀れみを含んだものに変わった。
「家の親は二人とも……特に父親の方はテレビを見ると馬鹿になると言っていて。私が物心ついた頃から考えても、家にはテレビがあったことはないんです」
 太善の言葉に、楊海はあっけにとられていた。
「太善、お前は、……かわいそうなやつだなぁ」
「いえ、自分があなたにそんなに哀れがられるほどかわいそうだとは全く思いませんが」
 苦笑する太善の言葉を全く無視して、楊海は語り続けた。
「『大長今』も知らないなんて。そもそもテレビがないなんて」
 楊海はただ深いため息を漏らしていた。
「よしわかった」
「なにがわかったんですか」
「とりあえずな。今度北京に来たら、オレの部屋に泊まれ」
「えぇ?」
 太善はなぜそのような方面に話が進んで行くのかわからない。それに楊海の部屋など、ちょっと想像してみただけでも、自分には耐えられそうになかった。
「自分の国の女優の可愛さも知らないなんて、お前は人生の半分を損している」
「損しているのが半分だけなら別にいいですが」
「つべこべ言うなよ。理屈っぽいやつだな。完璧主義なら少しは悔しがれよ。とにかく、オレの部屋に来い。まず『大長今』のDVDを全部見せてやる」
「DVDが出ているものなら、自分でレンタルしますよ」
「駄目だ。オレが横でヨン尚宮とヨンノの可愛さについて直接レクチャーしてやる」
 今度は太善がため息をつく番だった。
「……あなたゲイじゃなかったんですか」
「ごめん。オレどっちも好きなんだ」
 太善は絶句してしまった。
「がっかりした?」
「……いえ。別に」
楊海は「ちぇ」と舌打ちをしていた。太善はそれを見て、がっかりして欲しかったのかと思った。
「オレはさぁ。とにかくかわいい女の子が大好きで」
 太善は楊海のにやけた様子にあきれていた。
「男はちょっとおかたいくらいが好きなんだよね」
「そうですか」
 太善は素っ気なく返した。自分には関係ないと思っていたからだ。
「堅いのを柔らかくするのが楽しいんだ」
 太善がそれには答えず、出かける支度をしようと腰を上げたところで、
「君みたいなのにさっきみたいに笑われるとさ。かわいくてたまんなくなるよ」
 と、楊海は付け加えた。
 コートを羽織る手を止め、太善はゆっくりと振り返った。
「なんですって?」
「あれ、怒った?」
「かわいい?誰がですか」
「君が」
 太善は衝撃のあまり、その場で立ちすくんでしまった。さぁっと血の気がひいていくのが自分でもわかる。
楊海はそんな彼を見て、また笑った。
「ほら。そのリアクションがなぁ。たまんないな」
 立ちすくんでいる彼の首に手を回し、楊海は頬にキスをしてきた。
「あ、な、なにするんですか!いきなり」
 魔法が解けたように、ぎくしゃくと太善の身体は動き出す。彼はさっと楊海から離れ、頬についた唾液を一生懸命にぬぐいだした。
 楊海はそんな振る舞いさえも楽しそうに見ている。
 何度つれなくしても、しつこく追いかけてくる。ひどいバイタリティだ。なんとか彼をへこませることは出来ないだろうかと、太善は思案した。
「楊海さん。ホンオフェは食べたことありますか」
「ホンオフェ?」
「知らないんですか?」
 太善はいかにも馬鹿にした様子で鼻で笑って見せた。ホンオフェは発酵エイの刺身で発酵臭がかなりきつい。韓国人でも苦手にするものが多いものを、異国の人間が平気で食べられるわけはないと思っていた。
 しばらく考え込んでいた楊海は、何事か思い出したように、「ああ」と言った。
「ホンオフェって、あれか。エイの刺身。前から食ってみたいとは思ってたんだ」
 「食ってみたい」という言葉に、太善は反応した。
「じゃあ、御馳走しましょうか」
「本当?」
 楊海は素直に喜んでいる。彼を上手く乗せられて、太善も愉快だった。
「いいですよ。昨日は私が負けてしまったし。……ただ、どうですか。一つ賭けをしませんか」
「賭け?」
「ええ。もし、今日私が御馳走する料理をあなたが完食できたら、さっきのあなたの提案に乗りましょう。今度の休暇にはあなたの部屋に泊まって、あなたのお薦めのドラマを全部見て、女優についてのレクチャーでも何でも受けますよ。その代わり、もしあなたが完食できなかったときには……」
 楊海は期待に満ちた目で太善を見ていた。こういうところはあきれるくらい子供っぽいと思う。
「私の言いなりになってもらいましょうか」
 太善の言葉に、楊海は一瞬ぽかんとした。が、太善がその顔に得意げな笑みを浮かべる前に、楊海は、「なんだ、そんなことでいいの?」と、言った。
「なにして欲しいんだ?」
 太善はあきれた顔で楊海を見つめ、
「楊海さん、よく覚えておいてください」
 と、言った。
「あなたはさっき私のような人間が好きだとおっしゃいましたけど」
「うん」
「実は私もあなたのような人が好きなんです」
 太善がにっこりと微笑みかけると、楊海は初めて動揺したようだった。少し頬を赤らめ、にやけそうなのを必死でこらえているような顔をしている。
「私の趣味教えてあげましょうか」
 楊海はきょとんとしている。
「じゃじゃ馬馴らしです」
 太善は楊海に極上の微笑みを向けた。
「あなたもしつけて差し上げますよ」
 目を丸くしている楊海を見て、太善がいい気持ちになりかけていると、ふいに楊海が表情を変えた。
「へえ。それじゃオレの上に乗っかる気なんだ」
 今度は太善が目を丸くした。
「オレはそう易々と手綱は取らせないぜ。君の今飼ってる、栗毛のかわいこちゃんみたいにはな」
 楊海は不敵な笑みを浮かべている。彼の言う「栗毛」はおそらく永夏のことだ。太善はそう思い当たり、驚いた。
彼がそんなことを知っているわけがない。そう自分を落ち着かせようとするが、動揺がつい顔に出そうになる。それでも精一杯の虚勢を張って、太善は楊海をじろりと見上げた。
「お手並み拝見と行こうか」
 楊海が言う。
「こちらこそ」
強く見上げた後で、太善はにんまりと笑って見せた。
「じゃあ、まずは腹ごしらえだ」
「そうですね。行きましょう」
 太善はドアを開けた。
「あなたがこれまで味わったことのないようなものを、御馳走しますよ」
 楊海は太善に軽く会釈をして一歩を踏み出した。


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 これも没原。
 理由=やっぱ長いから。でもこの辺りのやりとりはそんなに嫌いじゃないので、ちょこちょこと摘んで最終稿に持って行った感じか。