key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『火病(ファビョン)』

 胸が苦しくなったのは、決勝が始まる一時間ほど前だった。
 太善にとってはもうなじみの痛みだったのだが、前日の準決勝の時までには、一度も胸が苦しくなることはなかったので、もう自分は「乗り越えた」のだと思っていたのだった。しかし決勝ともなると、やはり話は別だったと言うことなのだろう。もしこれから行われる決勝戦で彼が勝てば、世界の頂点に立つことになるのである。プロ棋士はそれほど社会的な地位の低い職業ではないけれど、彼の両親には好ましく思われていない。その両親も彼が世界選手権の優勝者となれば、彼を認めないわけにはいかないだろう。なにせ、以前世界選手権で優勝した李世石は、その名誉により兵役も免除されているのである。父自身も逃れることが出来なかった兵役を、息子である太善が堂々免除されるのだ。父は面白くないだろうが、何も言えなくなることは確かに違いない。
 この対局にはどうしても勝たなければならない。たとえ相手が、前年度の優勝者であっても、それを重荷に感じるようではいけないのだ。
 太善は少しでも胸の苦しさを和らげようと、深呼吸をしてみた。
 しかし、鼓動が激しくなるばかりでいっこうに体調は落ち着かない。それどころかこめかみのあたりが痛み出し、頭の中まで朦朧としてきた。経験のある症状だった。これはまずい、と、思ったときには、もう太善の身体は長いすから滑り落ちそうになっていた。
「おい。大丈夫か」
 朦朧とする頭に、ぼんやりと若い男の声が聞こえてきた。冷や汗まで出てきているのがわかっているのに、身体はもう動かせなくなっていた。
「もしかして過呼吸?」
 男の声がだんだん遠くなる。太善は自分では頷いたつもりだったが、相手にそれが伝わっているのかどうか確信が持てなかった。
 その後かさかさという音がしたかと思うと、自分の口に袋が押し当てられた。自分の吐いた息を吸いながら、ああ、この男は一応の手当の仕方を知っているのだと思っていた。
 そのうち呼吸はいくらか落ち着いて、頭の痛みだけが残るようになった。太善は自分で袋を外し、身体を起こした。まだ目がちかちかしていた。
「もう大丈夫か?」
 太善は今度こそしっかり頷いて、目を上げた。男は自分より少し年上らしい。ぼさぼさの前髪が、針金のようだと太善は思った。
「お前、安太善だろう?」
「……そうです」
 自分の名前を知っている、この男はなんなのだろうと思った。韓国語を話しているからには、韓国人なのだろうか。棋院の中では見かけた覚えはないけれど。
「これから決勝だよな」
「はい」
「がんばれよ。この袋はやるから」
 背中をぽんぽんと叩くと、男はスラックスのポケットに両手を突っ込んで、立ち去った。
 手の中に残っていたのは、セブンイレブンの袋だった。

 太善はそのときには結局世界一にはなれなかった。発作の余韻としての頭痛に悩まされて、まともに先読みを出来る状態ではなくなったからだった。
 結局、彼の兵役が免除されたのは、その二年後のことだった。

 自分と対局していた日本人の棋士を、太善は不思議な気持ちで眺めていた。
 彼がいつまでも話し続けているので、検討がなかなか終わらない。
 対局自体はなかなか楽しめた。倉田は日本の若手棋士の中では最近めきめき頭角を現してきた棋士で、国際棋戦への参加もこれが初めてではない。太善は初めての対局だったが、彼の評判は、韓国棋院の他の棋士から聞いたことがあった。彼もその日の対局をわりに楽しみにしてきた。日本人棋士との対局は物足りない思いをすることが多かったが、倉田はそれまで彼が対局した日本人棋士と比較しても、強かった。しかしそれでも対局をしていて焦りは感じなかった。
 倉田は韓国語を話せないようだし、英語を話す気もないようだった。太善としてはかける言葉がない。対局後の検討も通訳を通じてになり、かなりもどかしく、時間ばかりかかる。コミュニケーションをとる気のない相手に対して、自分がおれてやる必要など無いと考えている太善は、不満を内心にとどめ、笑みを浮かべて黙っていた。
 倉田は太善を不快にさせた。いかにも整髪嫌いらしい長髪、スーツのボタンがはじけ飛んでしまいそうな巨体。外見同様に節制の効かない口。二人きりならぴしゃりと黙らせてやりたいところだが、人目もあるし、言葉が通じないので、話にならない。太善は自分がこの場に居残っている意義を見いだせなかった。
 彼は立ち会いの棋士にちらりと目をやった。
 太善の目線での問いかけに、彼はやはり目線で許可を与えた。
 立ち会いの棋士が倉田の言葉を遮り、終了を宣言した。
 無言で礼をし、席を立った太善に、倉田が大声で何かを言ってきた。わからない言葉は聞き入れられない。「負けを素直に認めればいいのに」と思いながら太善が歩いていると、背の高い男が話しかけてきた。
「おい」
 韓国棋院の知人ではなかった。雰囲気から察するに、おそらく日本人でもない。しかし話しかけてきたのは韓国語でだった。
「帰るなって言ってるぜ」
 太善は足を止め、改めて目前にいる男を見た。
 襟足はすっきりと刈り上げられているが、基本的に髪はぼさぼさだ。その点で倉田と大差は無いように見える。針金並みに丈夫そうな髪だな、と、太善は思った。何故か知らないが楽しそうに笑っていて、太善はやはり不愉快だった。
「残っていても、話にはなりません。対局は終わりましたし」
 太善は韓国語で返し、目前の男ににっこりと微笑みかけた。
「失礼」
 軽く会釈をすると、太善はその場から立ち去った。歩き出す際に、男があっけにとられているのを太善はちらりと見た。
 その男に何となく見覚えがあるような気がしたのは、それから十歩ほど行ったあたりだった。太善が足を止め振り返ってみると、男も彼の方を見ていた。目があったのがわかると、男はにんまりと笑い、ひらひらと手を振ってきた。なれなれしい仕草だった。
 男の態度にとまどいを覚えつつ、太善は軽く頭を下げると再び歩き出した。

 男に再会したのは、その一ヶ月後。
 北京での棋戦の相手が、例のにやけた男だったのだ。
「こんにちは」
 先に席に着いていた太善を、男は見下ろしてきた。
「今日はよろしく」
 手が差し出された。太善は腰を上げ、「先日はどうも」と握手をした。この男が楊海なのか、と、思った。
 確か資料には八段とあったはずだ。高段者ならもう少し顔を知られていてもいいはずなのに、太善は楊海に覚えがなかった。
 思案する太善の目前で、楊海は早速シャツのカフスを外し、ネクタイをゆるめていた。
 シャツの陰からのど仏が覗いている。そもそも第一ボタンは外されていたようだった。太善は幼少期から癇性で、他人のだらしない服装もひどく気になる。表情には出さないようにしたが、内心では苛立ち始めていた。
「そう言えば、この間な、君がかえっちまったから、倉田がまた荒れてやけ食いしてたらしいぞ」
「そうですか」
 太善は驚いた風を装い、内心では倉田は本当に最悪な男だと考えていた。やけ食い、やけ酒等で憂さを晴らそうとすることを太善は許容できない。おまけに倉田は傍若無人で、礼儀知らずだ。何より太善の気に障るのは、倉田が負けを素直に認めないことだ。先日も悪態をつかれたことを思い出して、太善はため息をつきたくなった。
 ふと目を上げると、楊海と目があった。彼は反射的に微笑み返した。
「なにか」
「きみ、大きくなったなぁ」
 予想外の言葉に太善は戸惑いつつ「……お言葉の意味がよくわからないのですが」と返した。
「ああ、やっぱりオレのこと覚えてないのか」
「……一月ほど前に、三星火災杯の会場でお会いした方ですよね」
「それよりずっと前に、あったの。覚えてない?」
 太善は自分の記憶を出来うる限りさらってみたが、一月前より古い記憶の中に楊海の顔は見つからなかった。
「すみません。何かの勘違いでは……」
 太善が言いかけると、楊海は、「覚えてなくても仕方がないか。君、あの時気を失いそうだったもんな」
「え?」
「五年前の世界選手権の決勝直前に、君、過呼吸の発作起こしただろ」
 それは太善にとっては出来れば消し去ってしまいたい記憶だった。あの時発作を起こしてしまったばかりに、手の届くはずの名誉をふいにし、立ち直るまでにややしばらくの時間を要した。
 あの時周囲には人気がなかった筈だった。太善が正気を取り戻したときにも彼は一人きりだったのだ。あの時の自分のことを知っているとしたら。太善はそう考えて、あの時手の中に押し込まれたコンビニエンスストアの袋の感触を思い出した。
「……まさか」
「コンビニの袋もらわなかった?」
セブンイレブンの」
「そうそう」
「……あなただったんですか?」
 自分が珍しく素っ頓狂な声を上げてしまったことに気付き、太善は紅潮した。
「オレ、君とは別の山にいたんだけど、あの前の対局で負けちゃってさ。君はあの時は残念だったな。具合が悪くて調子が出なかったんだろう」
 太善は言葉をなくしてしまった。
 意識が朦朧としていたので、手当をしてくれたのが若い男だったという程度の記憶しかない。それがまさか隣国の棋士で、自分とこうして向かい合うようになるとは夢にも思わなかった。
「あの、……その節は、大変お世話になりました」
 彼には珍しく、口ごもってしまった。
「あれからどう?よくなった?」
「ええ。まあ」
 大切な棋戦で発作を起こしたことが災いしたのか、太善はその後しばらくは棋戦のたびに緊張を強いられることになった。発作と頭痛の日々からようやく抜け出したのは昨年の世界選手権後のことだ。発作のことも、胸苦しさのことも、克服したつもりですっかり忘れていた。
 いつの間にか脇には記録と立ち会いの棋士が来ていた。
 まもなく対局の開始を告げられた。もともとが神経質な太善は、この日の対局相手に知らずに恥をさらしていたと言うことがどうしても頭から離れず、盤面に集中しきれなかった。結果目算を誤り、半目差で敗れることになった。
 屈辱的だった。
 目の前で涼しい顔をしている男の顔を、太善はつい恨めしい気持ちで見つめてしまう。 過去のことなどいつでも自分を見かけたときに話しかけてくればいいのに。なぜわざわざ対局の直前に持ち出したりするのか。僅かな言葉を交わしただけなのに、なれなれしく話しかけてきたりして。太善は自分の神経の細さを楊海に上手く利用された気がした。
 ごつごつとした長い指で整地をしていた楊海が目を上げた。太善と目が合うと、彼はまたにやりと笑っていた。

 太善は韓国棋院から送信されてきたFAXに目を通してみた。棋院からFAXが来ることは珍しい。何かと思ってみると、北斗通信システムから送信されたものが転送されただけだった。
「なに?」
 肩越しに永夏が話しかけてくる。太善は無言で一通り目を通し、永夏に渡した。
「北斗杯の各国メンバーが決まったらしい」
 永夏もまた無言で目を通していた。
「……陸力が入っている」
「ぎりぎり対象内だからな」
「塔矢、って、塔矢行洋氏の息子?」
「おそらくそうだろう」
「進藤って、秀英が前から噂している進藤かな」
「さあ。私は知らない」
 永夏はもう一度目を通した後に、「あとはよくわかんない」と、あっさり紙を返してきた。
 太善は受け取った紙にもう一度目を通してみた。
 中国は一般に入段年齢が低く、地方にいるものも加えると、北斗杯の対象となるプロの人数がかなり多い。日本はと言えば、入段の年齢がまちまちな上に、そう人数が多くない。そもそも十代の棋士が国際棋戦に出てくるようなことがない。どちらにしても実態を詳しく知るのは難しく、時々国際棋戦で顔を合わす棋士から話をいくらか聞き出すくらいしかない。太善は日本人とも少しは仲良くなっておくんだった、と、後悔をした。
 その他には各国の団長の名前も載せられていた。
 日本の欄には、倉田の名前がある。太善は先日も三星火災杯で倉田と対局をし、勝って悪態をつかれてきた。倉田は勝っても負けても自分に一言言わずにいられないらしい。太善はうんざりながらも最近はそれに慣れてきていた。
 また倉田に会うのか、と、思いながら、太善は中国代表の欄に目を移した。団長は楊海となっている。太善はしばらく前に北京で行われた棋戦で顔を合わせた男のことを思い出した。
 あの男が団長なのか。
 顔を思い出すと、胸が少し痛む。
 太善は複雑な思いでその紙を北斗杯用に用意していたファイルに整理した。

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ヤンソロの文章が一部好評だったので、調子こいてみる。
これは没原です。なんで没ったかと言うと、「このまま書いていくと、何枚になるかわからない果てしない物語になりそうだったから」です。ちなみにここまでで、原稿用紙20枚分。全然話が始まってませんて(笑)。
提出原稿の内容と繋がらない部分があるので、そのまま前段にはなりませんが、こういう設定にしようと思っていたのです。