key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』37

 沙織はおとなしい女であるようだった。
 沙織から求められて会っている、という意識のある緒方は、彼女のおとなしさを緊張から来るものなのかと思っていた。しかし時々伺う表情には堅さはない。緒方は自身が対面した相手に緊張を強いるような雰囲気を持っているのを知っている。初対面の筈の沙織がなぜそう柔らかな笑みを浮かべていられるのか、彼にはわからなかった。
 それにしても意味の見いだせない話ばかり聞かされるよりは、口数の少ない方がずっといいと思った。受け答えはきちんとするし、愛想も悪くない。沙織に対する印象は、始めの頃よりはだいぶん良くなっていた。
 アクアミュージアムへ行きたいと行ったのは、沙織の方だった。
 沙織は薄暗いフロアに並んだたくさんの丸窓を興味深げにのぞき込んでは、緒方に質問をしてきた。彼女は緒方が熱帯魚を飼育していることをすでに知っているようだった。
「お父様からお聞きになったんですか」
 沙織は水槽に注いでいた視線を緒方に向けた。彼女は目を瞬かせていた。緒方の言葉の意味を取れていないようだった。
「なにをですか」
 それほど大きな声ではなかったのに、人気がないからか、沙織の声は僅かに反響していた。彼女はかがめていた身を起こした。
「私が熱帯魚を飼っていると言うことを」
「いいえ」
と答えると、彼女は僅かに目を伏せていた。なにか思い出しているようだった。
「雑誌で拝見したと思います」
「雑誌……」
囲碁の雑誌で。……確かインタビューかなにかで……最近のものではなかったと思いますけど」
 そうして彼女は愛想笑いをした。
 緒方は彼女の言葉を聞いて、昔そんなことを聞かれたことがあったかも知れない、と、朧気な記憶をたどった。
「失礼ですが、お目にかかったことがあったでしょうか」
「ないと思います」
 緒方の問いかけに、沙織ははきはきと答えていた。
「お宅に伺ったことは何度かあるんですが」
「それは存じています」
「それでは……」
「先生のことを家でお見かけした覚えはあります。でも、面と向かって顔を合わせたことはないと思います。ですから、先生が私のことを覚えていなくても仕方がありません」
「……そうですか」
「はい」
 沙織は再び丸窓を覗いていた。
「熱帯魚はお好きですか」
「ええ。かわいいですね」
 沙織は緒方に背を向けたままで答えていた。ガラスに映る彼女の顔には薄く笑みが浮かんでいる。自分に合わせて無理をしているわけではなくそれなりに楽しいらしい。それなりに気を遣っていた緒方は、小さくため息をついた。
 海獣のステージの近くにさしかかったので、緒方は何気なく「見ますか?」と尋ねた。彼自身は別に海獣に興味はないが、これまで彼と一緒にここを訪れた女性の中には、魚よりも海獣のショーを楽しみにしているものも多かったからだ。
「いえ。私は別に……。先生、イルカご覧になりたいですか?」
 聞き返されて、緒方の方が戸惑ってしまった。
「……いや、私は」
 緒方が答えると、沙織はにっこりと微笑み、「じゃ、行きましょうか」と、そのまま別の通路へ向かった。あっけにとられた緒方は彼女の後を追うようにして、同じ通路へ足を向けた。

**********
沙織……ヘンな女。いまいち定まっていない。