key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『四月の魚』2

 耳元の振動音に気付いて、伊角は目を開けた。
 まだそれほどの時間は経っていないのに、どろどろに溶けた身体は冷えてまた元通りに固まってしまったようだった。ただ、混じり合った記憶はまだ残っていて、彼を少し切ない気持ちにさせる。
 背中にひとの気配はなかった。伊角はけだるげに身を起こし、めざまし代わりにしていた携帯電話で、時間を再度確認した。昼の間に緊張が続いていたからか、疲れが残っている感じがする。それでもその日は自宅へ戻らなければならなかった。
 彼はその前夜、父親に緒方の所へよる旨を話したのだが、その際に「あまり先生にご迷惑をおかけしないようにな」と、やんわり釘を刺されていたのだった。伊角が「遅くなると思うけど」と返したのだが、父親はそれにただ「うん」と相づちを打っただけだった。話はそれで終わった。
 父親と話をした際、伊角の頭の中は久しぶりに緒方に会えると言うことでほぼ一杯になっていた。人目がなければ自然に頬がゆるんできそうな感じにもなっていた。だからその日のうちに家に帰ってくることなどみじんも考えていなかった。彼の父はもちろん二人の関係を知らない筈だけれど、伊角は父親に言葉をかけられたときに、自分の浮ついた気持ちを見透かされたような気がした。
 リビングにいた緒方に「帰ります」というと、緒方は少し意外そうな表情を見せた。彼はちらりと時計の方へ視線を向けた。
「送ろうか?」
 伊角も同じ時計を見上げた。時間は遅いが、まだ電車はある。駅までもゆっくり歩いて行けそうだった。
 車で家まで送られると、かえって別れがたくなりそうなので、いつもの伊角なら断ってしまう。緒方もあまり「送ろう」とは言わない。だが、この日たまたま気が向いたのか、緒方は「送ろうか」と言いだした。伊角は時計から目を戻し、
「お願いします」
と言った。
 気がついたらそう言ってしまっていた。離れがたい気持ちが、この時には勝ってしまったのだった。
 短く切ない時間だった。伊角は助手席でぼんやりと前方を眺めながら、いつの間にか赤信号を期待している自分に気付いていた。結局別れる時間が後ろにずれただけのことなのだ。
 自宅の前で、車が静かに止まる。シートベルトを外すとき、伊角はふと思いついて「お茶でも飲んで行かれませんか」と、声をかけた。
 緒方はただ静かに笑っただけだった。
 伊角は「無駄なことをした」と軽く落胆し、礼を言って車のドアを開けた。次の約束をもらえることをうっすらと期待していたが、車で送ってくれたのが最後のご褒美のようだった。
 次の約束をもらったことの方が少ないような気がした。伊角は緒方の車が見えなくなるまでその場で見送り、ため息をついた。
 家の中は真っ暗だった。弟たちは寝ているのだろうし、父親はまだ帰っていないのかも知れない。彼は静かに階段を上り、自室へ入った。
 緒方の所からもどってすぐには、いつでも自分の部屋がなじまない気がする。彼はまたため息をつき、着替えもせずにベッドに寝転がった。
 思いついて折り込んだ指は、一本で仕舞いになった。
 伊角が緒方の所へ出入りをするようになってしばらくした頃、緒方は師として伊角宅を訪れた。伊角の父に改めて挨拶をするためだった。緒方が伊角の部屋に足を踏み入れたのはその時だけだ。伊角は今でもその時のことをきちんと覚えている。入り口のところでぐるりと部屋の中を見回した緒方は、ぼそりと「お前らしい部屋だな」と呟いていた。伊角は隣で耳まで赤くなり、緒方はそんな伊角を見てくつくつと笑い出した。付き合いだしたばかりの年上の恋人を自分の部屋に迎え入れるのは、彼を酷く緊張させた。何も知らない家族が壁の向こうにいることを意識すると、自室にいながら全く落ち着けなかった。
 一本だけ指を織り込んだ手を、ぼんやりと見つめながら、伊角はその時のことを思い出していた。胸が自然と痛んだ。
 車で送ってもらうようなことがあれば、伊角はだいたい「上がってください」と声をかける。さほど無礼に思われないような時間帯なら、緒方は誘いに乗るけれども、二階への階段を上ることはない。客間で少しの時間を過ごし、すぐに帰る。
 知り合ってしばらく経った頃に、合い鍵はもらっていた。「いつでも来い」とは言われているが、彼は二人の関係に初々しさがなくなった今でも、予告なしに緒方の所を訪れることは出来なかった。ふらりと出かけてみたいと思う心の片隅で、思いがけない災難に出くわすことが怖かったのかも知れなかった。
 自分の手を取ってくれた緒方のことを、信じていないわけではない。ただ、知り合う以前から聞こえてきていた数々の噂が、時々彼の心を陰らせる。彼は自分が、緒方の部屋で無意識のうちに他人の痕跡を探すことがあることに気付いていた。
 家を出ようかな、と、いう考えが浮かんだのはその時だった。
 家を出て何が解決すると言うことでもない。本当にただの思いつきだった。