key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星』35

 楊海は伊角の泣き顔を一度だけ見たことがある。
 それは伊角が楊海の部屋に居候をしていた頃のことだった。楊海は伊角が部屋にいることを知らず、廊下にいた友人と話をしながら乱暴に自室のドアを開けた。そしてふと部屋の中に目を移してみると、伊角が呆然として彼を見つめていた。その目の端には涙のあとがあった。
 意外なことに楊海も驚いて立ちつくしていたら、伊角は酷く困った様子で顔を赤く染め、楊海の脇を抜けて何処かへ行ってしまった。
 ぽかんとしたままでそれを見送った楊海は、伊角の目の端に残った涙を思い出して、「まずいところ見ちゃったな」と思い、口を曲げた。
 その後それとなく情報収集してみたところ、伊角はその日の昼間の対局で負けていたことがわかった。観覧していた者の話では、伊角が負けたのは、ちょっとしたポカによるものであったようだった。
 伊角が負けることなど別に珍しくもない。もしかすると彼はそのたびに泣いていたのかと楊海は一瞬考えたが、普段の様子からするとそうは思われないし、もしそうだとしたら、自分が気付かないわけがない。考えるに、伊角はよほど悔しかったのだろう。楊海のアドバイスを受けて、調子を上げていたところでのミスで、ショックを受けたのかも知れない。
 伊角は訓練室が終了する頃に部屋に戻ってきた。
 楊海が「おかえり」と言うと、伊角はぎこちない笑みを返し、そそくさとシャワーを浴びに出かけた。伊角はその日は指導碁を強請ることもなく、シャワーから戻るとすぐに寝てしまった。
 そんなことがあったからと言って、楊海は伊角を女々しいなどとは思わなかった。ただ、日頃の彼の意思の強さなどを思い、痛ましいと少し感じていただけだ。
 楊海は伊角には何も訊かなかった。あえて聞き出すべきと思われなかったし、気持ちの整理がついて、話したくなれば向こうから話してくるだろうと思ったのだ。
 結局伊角は何も話さずに帰国し、二人はその後もそのことについて話をしたことはない。
 ただ、その時の伊角の顔は楊海の脳裏に焼き付いていて、時々不意に浮かび上がってきては、楊海をもやもやとした嫌な気持ちにさせた。

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リハビリでとりあえず書いてみる。
前回のもちまちま書いてます。