key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『四月の魚』(仮)①

 伊角が一人暮らしをしようかと思いついたのは、二月ももう終わりに近づいたある日のことだった。
 春と言われるようになってから、風が冷たく感じられる日が多くなった年だった。スーツを着て家を出た彼は、外へ足を踏み出してすぐに風の冷たさを知り、マフラーを取りに戻ったりした。対局日でもよほどのことでもなければスーツなど着ない彼が、この日スーツを着ていたのは、指導碁のためだった。その日の訪問先で指導碁をはじめてからもう半年近くになるのだが、もともとが棋院の紹介なので、それなりの礼節を守ることが求められていたのだ。
 特に変わったことは無かった。
 強いてあげれば、彼が指導碁をすませ帰途についたその道すがら、ある庭先で梅の花が咲いていたくらいだ。午後になってからは、朝方の寒さが嘘のように暖かく感じられるようになってきていたから、それまでは冷たい風に身を縮こまらせてきた花のつぼみもちょっと気を緩めたのかもしれない。そんな花のほころびかただった。だから公私ともに認める無粋な彼もその様子に少し頬をゆるめたりした。
 そんな程度である。
 彼がその後緒方と会うことになっていたのも、そしてその日の逢瀬を一つの区切りのようにして、彼らが少しの間疎遠になると言うのも、毎年のようにあることなので、彼自身も特に気にしてはいなかった。
 外で待ち合わせをして食事を済ませ、二人は緒方の部屋へ向かった。お互いに何となく相手に対して気を回すことが多く、すれ違いがちな彼らは、まるで遠距離恋愛の恋人同士のようで、その日も何気なく二人の時間を過ごしながら、久しぶりの逢瀬に対する喜びとその後の離ればなれの日々に対する感傷がない交ぜになってきていた。
 疲れが知らないうちに酔いを呼び寄せたのか、伊角がネクタイにかけた指を上手く動かせないでいると、緒方が見かねたように手を伸ばしてきた。緒方は綺麗にネクタイをほどくと、少し力を入れてそれを引き抜いた。衣擦れの音と同時に、伊角は首筋に痺れが走るような気がしていた。その痺れはやがて首筋から頬へ伝わり、眼鏡の奥で軽く伏せられている緒方の目をじっと見つめる伊角の目元にじんわりと熱を持たせた。
 伊角の目線に気付いたのか、緒方は目を上げた。
 その目に何か求められたように感じたのか、伊角は自然手を添えて緒方の眼鏡を外し、自分から唇をよせた。

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 とりあえず今日はここまで。
「四月の魚」はエイプリルフールのことだけど、この話はそれとは別に関係ない予定。語感がいいから仮題ということで。