key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・30』

 悪友達の配慮の甲斐あってか、緒方はその年、念願の本因坊位を手に入れた。しかし、その後すぐに始まった碁聖の防衛はかなわなかった。
 緒方が伊角に電話をしたのは、碁聖を逃して腐りがちな気分をなんとか晴らしたいと思っていた、初秋のある日のことだった。
 緒方が名乗ると、伊角はひどく驚いていた。
「え、あ、え、お、緒方先生、ですか」
 と、あからさまに動揺を見せ、緒方は電話を手にしたままついこらえきれず笑いを漏らした。
「緒方です」
 彼は再度名乗った。笑いはこらえたが、顔は自然にやけていた。
「伊角です。……先日はどうもありがとうございました」
 電話の向こうでしゃちこばっているになっている伊角のことを想像しながら、緒方は十段戦の際のことについて、礼を述べた。
「いえ、こちらこそ、勉強させて頂きました」
「その後も活躍しているようだね」
「いえ、先生こそ。あの、……本因坊、おめでとうございます」
 碁聖戦のことは故意に避けているのがわかる。気遣いの下手な男だな、と、緒方は一人苦笑し、本題にはいることにした。
 仲間内の研究会に来ないか、と、言うと、伊角はしばらく返答に迷っているようだった。
 これまでの印象から、伊角が二つ返事で承諾をするのではないかと思っていた緒方は、その間に疑問を抱きながら、答えを待っていた。すると伊角はひどく言いにくそうに、
「……今日はお酒は付き合えないですけど」
 と、言った。
 その言葉を聞いた途端に、緒方は合点がいき、吹き出してしまった。
 彼等が反省会で出会ってからそれまでの間に、彼に緒方の悪い噂でも吹き込んだものがいたのだろう。伊角は「研究会という名目の宴会」に呼ばれたと思っていたようだった。弾みがついたようで、緒方は笑いを止めることが出来なくなった。
 伊角は黙っている。突然笑い出したので、呆然としているのかも知れない。余計なことを吹き込んだのは、一体誰だ、等と思いつつ、緒方は一応笑いをおさめると、
「今日のは本当に研究会の誘いだよ」
 と、彼に電話をかけた経緯を話した。
 もちろん、彼と自分の立場の差もわかっている。それまでの伊角の印象から、知己のない所には来にくいタイプだろうと思っていた緒方は、九星会出身の棋士を仲間に含めておいた。その名を出すと、受話器越しにも伊角の緊張がいくらか解けたことがわかった。
 その日の研究会では、伊角は歓待された。
 業界紙などで顔は多少わかっているものの、伊角慎一郎という男がどういう人間なのかは、ほとんど知られていない。どんな生意気な若手がやってくるのかと身構えつつ興味津々になっていたその日の面々は、やってきた見るからに穏やかな青年にまず拍子抜けをしていた。
 その場に入ってきた伊角は、まず名を名乗り、「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。そして目に僅かに不安の色を浮かべたまま、ぐるりと全体を見回していた。
 緒方と目が合うと、伊角の表情が少し表情が緩んだ。緒方はその様子に、十段戦の際の伊角が篠田を頼りにしていたのを思い出していた。直接の先輩棋士に当たるものがいても、今頼りになるのは緒方の方であるらしい。緒方はなんとなく愉快になった。
 挨拶が終わると伊角は早速新初段戦の棋譜を並べるように求められた。まずそれがその日の研究会の第一番目のネタとして取り上げられることになったのである。
 自分が口を挟まなくても他の面子が伊角を囲んでいたので、緒方は遠巻きに彼等の様子を眺めていた。褒められたりけなされたり疑問を投げかけられたりで、伊角はいちいち顔色を変える。不遜なところがなく、真摯に指導をうける伊角に、皆好感を持ったようだった。中堅棋士たちからちやほやされる伊角の様子を見て、緒方は「楊海もこういうところにほだされたのか」と思っていた。
 当然の流れで伊角はその後の食事会にも引っ張って行かれた。困惑したような様子は見せていたが、容易に断れるような面子ではない。そのまま彼は宴会に巻き込まれ、緒方は彼を遠巻きにするばかりで、対局はおろか、ほとんど口をきく機会も得られなかった。
 「研究会だ」と行って彼を誘った以上、その日の緒方には責任があった。仲間内の研究会も久しぶり、また、その面子で酒を飲むのも久しぶりだったが、緒方は酒量を控え、頃合いを見て、伊角に「帰ろう」と声をかけた。宴会が始まってからおよそ二時間。そろそろその場が閉められてもいい頃だった。
 突然声をかけられて、伊角は驚いた顔で緒方を見上げた。その表情はすぐに安堵の表情に変わった。
「そろそろ電車の時間だろう」
 方便だったが、伊角にはなんとなく伝わったようだった。
「あ、……はい」
「この辺は不案内だろう。駅まで送ってやろうか」
「すみません。お願いします」
 周囲から残念そうな声が上がる。伊角はあちこちに頭を下げながら腰を上げ、座を抜けた。
 彼が抜けたことで、その場の雰囲気はなんとなく河岸を変えようという風になっていったようだった。
「緒方、次も来るだろう?」
 声をかけられて緒方が振り向くと、奥では精算が始まっていた。
「場所決まったら連絡してくれ」
 返事だけすると、緒方は伊角を伴って店を出た。
 歩き出してすぐに、伊角は緒方に「ありがとうございました」と頭を下げてきた。
「なんだ?」
「助かりました。お酒はあまり得意じゃないので」
 緒方の目に、伊角は確かに嬉しそうに見えた。
「悪いな。そう悪い連中じゃないんだが、新人が来ることは珍しいし……、君が来てみんなよほど嬉しかったんだろう」
 緒方の言葉に、伊角は苦笑していた。
「皆さん幻滅されたんじゃないですかね」
「どうして」
「期待されるほどのものではないですから」
 その謙虚さに、今度は緒方が苦笑した。
「今の評価が身に余ると思ったら、それに合うように変わっていけばいいだけだ」
 緒方はさらりと述べたが、そんなに容易なことではない。伊角はそれを感じているのか、苦笑しながら「そうですね」と相槌を打つ。
「つまらなかったか」
 緒方が軽い気持ちで問いかけると、伊角は「いえ」と大声で否定した。
「すごく勉強になりました」
「それじゃあ、これからも来るといい」
「いいんですか?!」
「ただ、不定期の集まりなんで、いつあると教えておくことはできないんだ。それでもいいなら」
「あ、……お願いします」
「都合の付いたときにオレから連絡を入れるんでいいかな」
「構いません」
 伊角は素直に喜んでいた。
「それと」
「はい?」
 伊角が彼の方を向いた。視線に気付き、緒方も彼に目を向けた。
「オレも君と手合わせをしてみたいんだが」
 小さく口を開けたまま、伊角は立ち止まった。それに合わせ、緒方も足を止めた。
「どうした」
「え、あの……」
 表情を強張らせながら伊角は問いかけてくる。暗闇の中ではよく解らないが、顔は真っ赤になっているのだろう。
「駄目だろうか」
「いや、あの、そんな、」
 伊角は必死になって否定をしてくる。その様子がおかしくて、緒方はつい吹き出してしまった。
「君が嫌なら無理は言わないが……」
「い、嫌じゃないです」
「本当に?」
「はい!」
 いちいち一生懸命に返答をしてくるのが、更に緒方の笑いを誘う。くすくす笑いを止められないまま、緒方は行洋経営の碁会所のカードを取り出した。
「君、碁会所なんか行くか?」
「以前は結構行ってましたけど」
「塔矢先生が経営している碁会所のことは知っているか?」
 緒方が訊くと、伊角は一瞬の間をおいて、「進藤がよく行っているようですが……」と答えた。
「場所はわかるか?」
「進藤に聞けばわかると思います」
「方向音痴?」
 伊角は少し考えたあとで「普通だと思います」と答えた。
「それじゃあこの裏に案内があるから、これを見て来るといい。対局のない日は大抵ここで指導碁をしているから。もし心配なら、事前に電話をしたらいいだろう」
 緒方の差し出したカードを、伊角はそろそろと受け取り、彼を見返してきた。
「気が向いたら来るといい」
 そう言い終えた緒方のことを、伊角はしばらく黙って見つめていたが、やがてゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
 そうして嬉しそうに微笑むと、伊角は緒方に背を向けて去っていった。

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書きためたのはあと一回分。少し書き足していかないと。
なんとなく既視感あるシーンなので、ここは変えるかも知れない。