ring(version)
「お前はいつもそうだ」
背中を向けたまま、彼がつぶやいた。
「オレには何も言わないで、勝手に決める。いつも。いつもだ」
こんな風に突っかかってくることは時々あるので、そのまま放置しておいた。
背中はそのままぼやき続ける。
「髪を切ったときも」
その言葉にふと目をやると、肩胛骨のくぼみに出来た陰が目に入った。その美しいラインに思わず見惚れる。
髪型を変えたのは、随分前のことだ。前の髪型は成長につれて似合わなくなってきた。だから年相応になるように変えた。それだけのことだった。
その後に初めて顔を合わしたときのことを思い出すと、彼は確かに驚いていた。ぽかんと口を開けて、言葉を無くしていた。もしかすると大騒ぎするのではないかと思っていたので、こちらもきまりが悪くなって目線をそらしてしまったような気がする。しかし彼はその後確かに、「結構似合うじゃん」とつぶやいていたのだ。
「そうか?」
「まあ、悪かねぇよ」
そうしてぷいと背中を向けた。
ただ仕事に向かっただけ、と思っていたのだが、あれは拗ねていたのだろうか。そんなことを今頃になって考えた。
あの後彼が一時的に不能になっていたのは、もしかするとそのせいもあるのだろうか。頭に手をやりながら、不満そうにしていたこともあったような気がする。
それにしても、そんなことを今更言われても困る。
だいたい彼自身はこちらに了解を取って何かをすることなどないんだから。勝手と言えば、彼の方がよほど勝手なのだ。
そう考えながら彼の背中を見下ろしていたら、彼が突然寝返りを打った。
「お前はオレを捨てるんだな」
彼の細い腕が伸びてきて、指先で顎をとらえる。石を持つときのように、その指先には力が込められていた。
親指の爪が顎に食い込む。
彼は冷たい目をして、口元は薄く微笑んでいるように見える。その顔をじっと見下ろしていた。
「痛いって言えよ」
黙っていた。
「痛いんだろ?」
彼の表情が歪みはじめた。
「いてぇって言えって!」
確かに痛かったが、痛めつけてくる彼の方がよほどつらそうだった。そう言う彼のことがだんだん哀れに思われてきた。
「……痛い」
つぶやくように答えると、彼は気が済んだのか、手を離した。つままれていたところにはまだ痛みが残っている。おそらく彼の爪の跡が残っているだろう。
「帰れ」
背を向けた彼は吐き捨てるように言った。
「帰れよ!」
丸められた背中の様子から、もう今日はこれ以上何も話し合えないだろうと思った。
仕方なくこちらも背を向けて、シャツを手にした。
ボタンをしている最中、何か話しかけられたような気がして振り返ると、彼の背中が少し縮んで見えた。
萎れている様子が気になったので、上からのぞき込むようにしてみると、彼は布団に顔を埋めるようにしていた。
慰めるでもなく、髪に触れた。
ゆっくりと寝返りを打った彼の顔に涙の跡はない。ただ寝起きのように目つきがぼんやりとしていた。
まぶしそうな目のまま、彼は手を取ってきた。
半端な格好のまま強引に腕を引かれた。彼の上に倒れかかるようになり、身体がぶつかり合う。唇がどこか硬いところに当たったらしく、痛みが走った。内側が切れたらしい。口の中に血の味が広がる。
彼はそんなこともお構いなしに唇を重ねてきた。
むちゃくちゃなやり方で、唇を貪られた。そのやり方に必死で答えているうちに、きつく唇をかまれた。先ほど切れた場所の近くのようだ。痛みが酷くなっていた。
それでも彼はキスをやめない。舌をとがらせ、滲む血をなめ、傷のあるところをわざと口に入れたりする。流石にたまらなくなって、眉をひそめた。
それがわかったのか、彼の口元はうれしそうに歪んだ。
しばらくの間そうしていたら、気が済んだのか、彼は不意にキスをやめた。彼は荒い息もそのままで、口元をぬぐっていた。
その様子を見下ろしながら、なんてわがままで、なんて勝手なやつだと思っていた。
出会ったときから、彼には何故か腹が立ってばかりで、ずっと振り回されてきた。もう付き合わないと何度思ったかしれない。
しかし顔を合わせるといつでも、縁を切ることなど考えられなくなってしまうのだった。
どうしようもない男。
見つめていると、いつでもいとおしく思える。
こちらから手をかけて彼の身体を引き上げ、きつく抱きしめてやった。
つい数十分前にはすべて出し尽くしたような気分だったのに、腕の中で身をよじる彼の吐息を耳にしただけで、じわじわと身体に熱が溜まり始めた。
のけぞった首の上、顎下の柔らかな皮膚を吸い上げる。酷く扇情的に嘆息をしたあと、彼は、「畜生」と悔しそうに呟いていた。
「……かえんな」
かすかな声とともに、彼の腕が拘束しようとしてくる。
「好きだよ」
というと、
「うるせぇ」
と、返された。
その後の言葉は言われなくてもわかる。
「どっかの女と結婚するくせに」
吐き捨てるような台詞に苦笑した。
「絶対、許さねぇ」
抱きしめる耳元でその言葉を聞いた。
「許さなくていいよ」
「馬鹿野郎」という呟きが聞こえた。
確かにそうだった。
ボク達は馬鹿だ。口汚く罵り、様々なやり方でお互いを傷つけながら、本気で離れる気など欠片もない。他人と縁を結んだ翌日にでも、彼と顔を合わせたらおそらく抱きたくなる。そんな気がする。
普段は運命など信じないけれど、彼とのことに関して言えば、そういう運命なのだとしか言いようがないような気がしていた。
無心にお互いを求めながら、彼に指輪を買うことを思いついた。
数日前に選んだ指輪はおそらく彼の指にもすんなりとおさまるだろう。
そんな彼といつか何食わぬ顔で向き合う日が来ると思うと、もうそれだけでどうにかなってしまいそうだった。
勢いで「愛してる」というと、彼は喘ぐ合間に勝ち誇ったように微笑んでいた。