『so blue』2
煙草を銜えたままで、緒方がぼんやりしていたら、「どうしたの?」と、声をかけられた。灰が落ちそうになっていたことに気付き、慌てる彼を見て、女はくすくすと笑っている。彼女の名は河上恵、数年前にプロ入りした女流棋士だ。彼女の両親は共に棋士で、行洋とも付き合いがあったため、彼もずいぶん前から彼女のことは知っていた。
もっとも、部屋へ出入りするようになったのは、ほんの数ヶ月前からである。プロ試験後の脱力した状態のままで街をふらついているところを車で拾われたのがきっかけだった。
「もう六時半だよ。先生、心配するんじゃない?」
彼女の諭すような口調が気に障る。彼は表情を硬くした。
「帰る」
彼は煙草を揉み消し、腰を上げた。
また来る、とは言わない。自分が別に彼女にとって特別な存在ではないのはわかっているし、彼もそうなりたいとは思っていなかった。ただふらりと立ち寄ることが可能な場所だから、思い出したら立ち寄ってみる。そんな程度である。彼女も彼を別に邪魔にはしないし、「またおいでね」などとも言わない。
ただ、彼にとって、彼女の部屋は、いつまでも居たいと思うほど居心地のいい場所ではなかった。だからとりあえず気持ちが落ち着いたら、きちんと帰途につく。我ながら姑息なようにも思われたが、生活が乱れていると他人から指摘されるような振る舞いをするのは、彼のプライドが許さなかった。
「そういえば、緒方くん、進路決まったの?」
「うん」
「どこ?」
「……海王」
「なぁんだ」
彼女の笑い声は、緒方には嘲笑のように感じられた。
「合格のお祝い、なにかくれないの?」
彼がふざけて言うと、彼女は「やぁね」と言って、更に笑っていた。
「ちっともお目出たくなんかない癖に、よく言うわね」
彼女はその後に「それにどうせ持ち上がりなんでしょ?」と、付け加えた。
「うん」
「長くいる気もないんでしょ?」
彼はそれには答えなかった。
「まさか、まだ学生やる気なの?」
彼はちょっと首を捻って見せた。
「そんなに格好つけてたら、普通に高校卒業しちゃうわよ」
「別に格好なんかつけてない」
「じゃあ自信あるの?」
彼は無言で靴を履いていた。
「河上さん」
「なに?」
「プロってどう?」
「どう?……なに?それ。今更迷ってるの?」
「そう言うわけじゃない」
「じゃあ、なによ。プロにならなくてどうするわけ?なにか意味があるの?」
「いや。ない」
彼女は不審げに彼を見ていた。
彼自身、無益な問をしてしまったと思っていた。プロにならないとなにも始まらないのは、もうわかりきっている。プロ試験の合格というのは、すなわち、今いる部屋を出て、新しい部屋に入るための鍵を渡されるということだ。それ以外にはなにも意味などない。
「プロになったら、なにかくれる?」
おかしな問いかけばかりするので、彼女はすっかり呆れたようだった。
「ご褒美が欲しいなんて、子供みたい」
「いいじゃない。オレまだ中学生だよ」
「なにが欲しいの?」
「なんでもいい?」
不審気な表情のまま、彼女は頷いた。
「じゃあ、やらして」
彼が言うと、彼女はプッと吹き出し、腹を抱えて笑い始めた。
「いいわよ」
という返事を聞くと、彼は笑い続ける彼女を尻目にして、部屋を後にした。
彼が帰宅してみると、行洋ももう帰宅をしていた。
「遅くなりました」
と、彼が居間につづく襖を開けると、行洋はアキラと遊んでいるところだった。
行洋が差しだした指を、アキラが強く握る。緒方も指を握られたことがあるのだが、赤ん坊は力の加減をしないので、指がひどく痛んだことを覚えている。握ったまま離してもらえないので、その時には閉口をした。
行洋はアキラと力比べでもするように指を引き合いながら、アキラを笑顔で見下ろしていた。緒方はその様子から目を離せなくなった。
「ああ、お帰り」
行洋はようやく彼が立っていることに気付いたようだった。彼は再び「遅くなりました」と頭を下げた。
行洋はそれ以上なにも詮索しない。
明子が暖めなおした夕飯を用意し、彼が夕飯を済ませるまで、行洋はずっと同じ遊びを続けていた。
やがて風呂の用意が出来、夜の稽古の時間になった。
緒方は行洋と普段通りに稽古を済ませ、離れに戻った。
布団を用意しながら、彼は今度こそ絶対にプロにならなければならないと思っていた。
もうプロになるしかない。
そしてここを離れよう。
そう考えていた。