key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『so blue』1

 その年では初めて暑くなった日のことだった。
 土曜日だった。半日の授業を終えて緒方は帰途についていた。
 緩い傾斜を上りながら、腹が鳴りそうになる。昼はなにが出てくるんだろうと思いながら、彼は門を潜った。門のそばには行洋が生まれた記念に植えられたという桜がある。木陰に入って、緒方は思わず溜息をついた。
 普段なら、彼が玄関の戸を開けると、奥から明子が出迎えに来る。しかしその時には出迎えがなかった。玄関に鍵がかかっていなかったのに、不在だとは不用心な、と、彼は一人勝手に不愉快になっていた。
 自分の部屋へ向かうべく、縁側の方へ足を向けると、なにやら話し声が聞こえてきた。
 明子は庭先にいた。
 彼女は職人風の男数名と話をしていた。見慣れない顔だった。新しい植木屋だろうかと思いながら、緒方はそのままそこを通過しようとした。
「あら、おかえりなさい」
 呼び止めるように声をかけられて、緒方はやむを得ず足を止めて頭を下げた。
「気付かなくてごめんなさい。今お昼にしますから」
 彼女は顔だけを彼の方へ向けていた。まだそれほど目立たないが、彼女のお腹には行洋の子供がいることを、彼は知っている。
「自分でやります」
「すぐ出来るから、待っていて」という声を振り切るように、彼は自室へ急いだ。
 台所にはそうめんが用意されていた。その側には梅干しや胡麻、葱や胡瓜が置いてある。食事の用意をしようと思っているところに、職人が来たのだろう。
 彼は鍋とすり鉢をとりだした。
 彼女が妊娠していることは、行洋から直接話をされていた。留守がちな自分に代わり、何かと明子の手助けをしてやって欲しいとも言われていた。彼は「わかりました」と返事をしたが、内心は複雑な思いがしていた。行洋の母が入院するのと入れ替わりのようにして塔矢家にやって来た明子のことを、緒方はあまり快く思っていなかった。行洋とその母と自分で綺麗な形を造り上げてきたところに、彼女が突然入り込んできたように思われていたのだ。
 薬味の用意もし終え、麺をゆであげている所で、明子はようやく戻ってきた。
「ごめんなさい」
「いえ」
 彼は短く儀礼的な返事をした。
「運ぶわね。これ」
 緒方は彼女の言葉が水音で聞こえないふりをしていた。
 二人は向かい合って食事をしていたが、終始無言だった。
 明子が行洋の弟子である自分に対して気を遣うのが、緒方はどうも気に入らない。なくなった行洋の母は、昔気質のひとで、他人の子である緒方に対しても厳しくしつけをしようとした。いろいろと手伝いもさせられたし、随分叱咤もされた。向かい合っていると緊張もさせられたが、緒方は別に行洋の母を嫌いではなかった。それは、彼女が緒方に対して気を遣う様子がなかったからかも知れない、と、ある時緒方は考えたことがある。彼女は緒方のことを自然に受け入れていた。
 若い明子は、致し方のないことだが、自分のことを持てあましているようだった。もしかすると、行洋の母親からもいろいろと頼まれているのかも知れないが、肉親のように――年若い母親かやや年の離れた姉のように――彼に接し、受け入れていきたいと思っているようだった。しかし緒方にとっては、彼女の躊躇いながらの様子が、どうにも気になる。媚びを売られているように感じられるのだった。
 行洋の母は既に他界し、行洋からもよろしく頼むと言われているからには、彼は明子と上手くやっていかなければならなかった。それがまた彼を面倒な思いにさせていた。
「この梅おいしいわね」
「そうですね」
 気まずい空気をなんとかしようとしているような明子の言葉に、緒方はつれない返事をした。
 麺をすする音ばかりが響いていた。やがて緒方は先に食事を終え、明子の分まで麦茶を入れてきた。
「今日は買い物はありますか?」
「え?」
 明子は目を丸くしていた。こんな表情をしていると、実際の年齢よりも随分と若々しく、娘らしく見える。その表情を見ながら、先生はこんなところが好きなんだろうか、と、緒方は思っていた。
「なにか買い物があるなら、言ってくれれば僕が行きますから」
 明子は少し前に悪阻で寝たり起きたりを繰り返していた。未だに顔色はあまりよくないが、このところは一日起きて家事をこなすようになってきていた。彼女が寝込んでいる時分には、緒方が力のいるようなことを請け負っていたのである。
「あら、そんな、いいのよ。買い物ぐらい自分で行けます」
 明子は頬を染めていた。
「緒方くんに手伝いばかりさせていたら、行洋さんに叱られてしまうわ。大切なお弟子さんにお勉強の時間もやらないでって」
「僕は、先生から手伝いをするようにと言われているので、どうか遠慮はしないでください。大奥様からもいろいろ言付けられてましたし」
「そう。ありがとう。でもいいのよ。あまり大事にしすぎるのもよくないとお医者さんからも言われているから。……それより、試験が近いんでしょう?」
 学校の試験のことをさしているのか、プロ試験のことをさしているのかわからなくて、緒方は彼女を見つめたまま、しばらく思案していた。
「行洋さんも、期待されていたようよ」
 その言葉を聞いて、彼はようやく、彼女がプロ試験のことを言っているのだとわかった。
 「期待している」と言われても、彼は複雑な思いになるばかりだ。「それじゃあ、これまでは期待してなかったってことか」とも思うし、「これまでだって、毎年期待されていた」とも思う。「先生が自分に期待するのは当たり前だ」という気にもなる。そして結局は自分が不甲斐なくなる。緒方はこの時どう言葉を返したらいいかわからなくなってしまった。
「……いつでも声をかけて下さい」
 緒方は情けない気持ちのままで、明子に目をやることなく腰を上げた。

 緒方が行洋から離れの改修の話を聞いたのは、その翌朝の稽古の後のことだった。
 その話から、彼は昨日の男達が改修の見積もりを立てに来た職人であることを知った。
 行洋は、今後の自分の生活について知己から助言をもらったこと、緒方のためには、住まいを別にした方がいいのではないかということなどを緒方にとつとつと話して聞かせた。緒方は膝に手を置き、片づけを終えて綺麗になった碁盤の端に目を落としていた。
 「とうとう来たか」と心の奥で思っていた。
 明子が初めてこの家に顔を出した時、緒方は漠然と自分はいつかこの家からはじき出されるのではないかと思っていた。
 そして現に彼は疎外されてしまった。
 行洋と明子との間には自分の踏み込めない領域があることを、思春期の彼はよく解っていた。行洋と自分の繋がりは、明子には容易に(そして無意識に)断ち切ることが出来る程度のもので、自分は、割り込んだ明子に対してけして異議申し立ては出来ない。それが時々無性に腹立たしく感じられる。「この人は先生にとって大事な人だから」と自分を宥めようともしたし、彼女になるべく好意的になろうともした。しかし、その反動のようにどうしようもなく気怠い気分になることがある。
 彼にはここより居たい場所がない。
 そしてこの場に居続けるためには、行洋に見捨てられるわけにはいかなかった。
「いつ引っ越せばいいですか」
 緒方が尋ねると、行洋は、
「そんなに急ぐ話じゃない。子供が生まれるのは年末だし、年が明けてからでも……」
 いつもはっきりした物言いをする行洋の口調に躊躇いが感じられた。先生は先生なりに申し訳ないと思っているんだろうか、と、俯いたままで緒方は考えていた。
「工事はいつまでかかりそうなんですか」
「9月まではかかるようだ」
「それじゃあ、プロ試験が終わったら、離れに移るようにします」
「春になってからでもいいんじゃないか」
 その言葉に、緒方は何故か笑ってしまいそうになった。
「プロ試験の後の方が、区切りがいいと思いますから」
 行洋はもうなにも言わなかった。

 緒方は幼い頃から頭を下げることが嫌いだった。
 形として下げなければならないときには下げる。しかし、親に説教をされているときにも、本当に申し訳ないと思って頭を下げたことはない。だいたいはじっと相手を見返しているか、神妙な様子で目を伏せている。だから彼はよく父親から「生意気だ」と言われていた。そう言われるとますます頭を下げたくなくなった。
 いつのころからか、頭を下げたら負けだと思っていた。そうなれば、足蹴にされ、切り捨てられても文句は言えない。
 もしかするとそれは彼の嫌いな親の性質を受け継いでいたのかも知れないが、とにかく幼い頃から納得できないことは受け入れられなかったし、納得できない振る舞いをするような輩に負けるなどまっぴらだった。
 だから誰よりも優秀でありたいと思った。誰からも欠点を指摘されるようなことのない人間になりたいと思っていた。そのための努力は惜しまなかった。努力に応じて成果は得られ、成果を得られれば、それが自信になると思った。自信があれば、切り捨てられる不安もなくなる。切り捨てられるよりは、切り捨てる方がいい。彼は切り捨てる方にまわりたいと思っていた。
 行洋は昔緒方の両親に対して頭を下げたことがある。
 緒方がいよいよ塔矢邸に引っ越すという日のことで、緒方は頭を下げる行洋の横に立ち、その様子をじっと見つめていた。
 自分も頭を下げないような人に、この人は頭を下げるんだな、と、思っていた。
 それもよく知らないただの子供である自分のために。
 その時、緒方の中で行洋は別格になった。

 白川が緒方の所へ泊まっていった日の夜中に明子は破水して、その翌日に運ばれた病院で出産をした。子供は明子の名から一字を取り、仮名にひらいてアキラと名付けられた。
 母子はそれから一週間ほどして塔矢邸に戻ってきた。明子が自由に動けないうちは、と言うことで、塔矢家では家政婦を雇うことになった。
 予想されたことだが、塔矢家の雰囲気はその冬一変した。
 離れに住んでいたのを幸いにして、緒方は時々家を空けるようになった。