key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・22』

「和谷、今日ひま?」
 伊角に声をかけられて、和谷は「何したいの」と返した。
 伊角が彼に「今日ひま?」と訊くのは何処か付き合ってもらいたいところのある時である。昔から判で押したように同じ台詞を言うので、和谷ももう既に要領を心得ていた。
電気屋に行きたいんだけど」
「何買うの?」
「MDプレイヤー」
「自分用?」
 和谷が訊くと、伊角は少し恥ずかしそうな表情で笑った。
 和谷はもうそれ以上伊角の買い物について追求することを避けた。
 彼等は最近終了したばかりの十段戦の話をしながら、電車で移動した。
 ポータブルオーディオ機器の売り場に連れて行くと、伊角はいきなり途方に暮れていた。あまりの品数に、驚いてしまったらしい。
「そんなとこに立ってたら、危ないよ」
 和谷に腕を引かれるままに移動をする。コーナーの端から端までならんだMDプレイヤーを一瞥して、伊角は何度も目を瞬かせていた。
「メーカーとか機種とか決まってるの?」
「え?あ?」
 伊角は無意味にきょろきょろする。
「予算は?」
「……普通いくらぐらいなんだ?」
 和谷は苦笑すると、「そりゃ、ピンからキリまであるけど……」と呟いていた。
「再生のみだとこの辺、録音と再生が出来るのは、この辺が平均かな」
 指さされたものを眺めてはみるが、伊角の視線は更に彷徨い続ける。和谷はその様子を見て、
「一年以上も前のものだったら、もうここには売ってねぇと思うけど?」
 と、伊角に話し掛けた。伊角は驚いた様子で和谷の顔を見返してきた。
「……買って返すんだったら、同じのさがすよりは、新しいいいの買ってやったほうがいいんじゃねぇの」
 伊角は顔を引きつった笑みを浮かべたまま、何も言えないでいる。
「同じの買って返したら、けっこうあからさまでしょ?」
 伊角はこっくりと頷いた。
「返さなくていいって言われたんだよね」
 和谷の言葉に、伊角は更に頷いた。
「それじゃ、単なるお礼ってか、プレゼントってことにした方が、すんなり受け取ってもらえるんじゃねぇかって思うんだけど」
 伊角はしばらく目を見開いたままでいたが、やがて「そうかな……」と呟いた。
「そう思う」
「そうか……」
「……てかさ。楊海さんって、新しいもの好きな人なんでしょ?」
 和谷が不意に出した名前に、伊角の頬が薄く染まる。そんな調子なので、わかりやすい人だな、と、和谷が思っているとは、全く思い至っていない。
「MDよりもっと小さくていいのとか今出てるし……、そっちの方が喜ぶかもよ?」
 和谷の言葉に、伊角はしばし考え込んでいたが、「うん。……そうかも知れないけど、でも、MDにしたい」と答えた。
「新しいいいのは、もう、自分で買って持ってるかも知れないし……」
 その言葉を聞いて、「それじゃあ、もうMDなんかいらないんじゃ」という言葉を和谷が飲み込んだことを、伊角は知らない。そんな風に結論を出した後は、もう誰に何を言われようが、後には引かないたちであることも、和谷には既にわかっているが、自身ではきちんと把握をしていないのだ。
 この時和谷は「……それじゃ、なんか使いであるのにしたら?」とすんなり退き、少々値段が高めではあるが高機能のタイプをすすめた。
 伊角はいくつかある同タイプのものの中で迷いに迷った挙げ句、和谷に「これどうだろう」と確認してから、それを買った。
 売り場に着いてから買い物を終えるまでおおよそ一時間半。一人で来ていたら一体何時間かかるんだろうと和谷は溜息が出そうになるところを抑え、自らの忍耐力が更に向上したことを実感していた。
 伊角はもともと対局しているときと対局していないときのギャップが激しい人間だった。共通しているのは自分のすべきことに対して手を抜かないということで、一番の相違点は気の抜けようであった。碁に関わる時のそれと、それ以外では見事に反比例している。しかもそれが中国帰国後には程度を増している、と言うのが和谷を始めとした周囲の見解である。それでも彼が仲間から敬愛されているのは、時に呆れるほど真っ直ぐであるからだった。
 伊角は先日、手合い料が入ったら、世話になった人にお礼をしたいと話していた。おそらくその日の買い物はその主旨に乗っ取ったものなのだろうと、和谷は考えていた。
 新初段棋士の手合い料など、本当に微々たるものだ。和谷自身の手合い料は引っ越しに関わるあれこれで綺麗になくなってしまった。そして一年経った今でも、生活自体は楽ではない。自分の我が儘を結局通してくれた親に対して感謝の意はあるが、照れもあり、未だにそれを形にすることは出来なかった。しかし、伊角はすんなりそれをしてしまう。
「伊角さん、それ、向こうに送るのか?」
 帰りの電車の中で、和谷が尋ねた。
「いや、北斗杯の時に渡そうと思って」
 楊海が団長として来日することは、その頃にはもう既に彼等には周知のこととなっていた。
「会う時間取れそうなの?」
「レセプションの日なら時間取れそうだって言われたんだ」
 微笑みながら話す伊角の横顔は、何処か夢を見ているようでもある。中国棋院に関することを話すときの伊角はいつもこんな感じなので、和谷はまた彼がなにか思い出しているのだろうと考えていた。
「和谷はさ、レセプションの日は時間あいてるか?」
「レセプションて何時頃?」
「確か夕方」
 和谷は自分のスケジュールを懸命に思い出し、「たぶん、空いてると思う」と答えた。
「じゃあさ、一緒に行かないか」
「ええ?いいの?オレ行っても」
「どうして?」
「だってさ。向こうは伊角さんの仲間みたいなもんだろうけど……、オレは違うしさ。邪魔じゃねぇの?」
「別に平気だよ。進藤だって会場にいるんだし」
「進藤なんかいつでも会えるじゃん。今からだって……」
「でもさ」
「……そんなこと言って、伊角さん、なんか企んでるんじゃねぇの?」
 和谷の言葉に、伊角は動揺していた。
「あの、……なんつったっけ。楽平?とかってヤツにオレが似てるからって、わざわざ見せようとか考えてんじぇねぇ?」
「……そんなんじゃないよ」
「んじゃ、なんで?」
 伊角は変に笑うばかりでそれ以上は何も答えない。呆れた和谷は小さな溜息の後で「いいよ」と言った。
「え?」
「一緒に行くよ。レセプション。オレも楊海さんとかって、一度会ってみてぇし」
 和谷が言うと、伊角は嬉しそうに笑う。
「今日買ったそれ、ちゃんと渡せるか見届けねぇと」
 和谷が何気なく付け足すと、伊角は何故か頬を赤らめ、困惑した表情を浮かべた。
「……なんでそんな赤くなってんの?」
「あ?あかい?なにが」
「顔」
「あ、そう?……そうか……」
 伊角は深い溜息をつくと、話題を変えた。
 和谷はその溜息に疑問を持ちつつ、新たな話題にすぐに関心がうつり、やがてそのことは忘れてしまった。
 二人はその日、待ち合わせの時間を決めて別れた。

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和谷初登場。しかしきっとこの後も登場は少ないであろう。