key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・8』

 その内年が明け、新初段シリーズが始まった。
 塔矢行洋との対局で初手に二十分使うという謎の行動をした進藤ヒカルは、緒方の興味をますます惹くことになり、伊角という名前はまた彼の頭の中から消えつつあった。
 2月、彼は、十段戦の挑戦者に決定した。相手は師・塔矢行洋である。師を乗り越え、次の段階へ進むための準備に、彼は力を入れ始めた。
 そして3月。いよいよ十段戦が始まった。
 第一局の開催地は新潟県のある温泉地である。緒方は前日の昼頃に会場となる旅館に到着し、レセプションに出席をした。
 壇上に師と並び、ともに花束を受け取って、挨拶を述べた。スピーチをすること自体に抵抗はないが、初のタイトル戦を控え、緊張は感じていた。
 対局の立ち会いや地元の名士、観戦に来た棋士たちなどに挨拶をして回り、ふと一息ついたところで、背後から声をかけられた。振り向いてみると、女流の桜野千恵子が立っていた。
「お久しぶりです」
 桜野はにんまりと微笑み、頭を下げた。緒方は彼女の方へ向き直った。
「明日はよろしくお願いしますね」
「明日は、解説か?」
「はい。アシスタントです」
 桜野はとびきりの美人というわけではないが、適度な色気があり、愛想も良いので、イベントやタイトル戦などではわりに良く起用される女流棋士だった。段位はまだそれほど高くないのだが、緒方もこれまで何度か一緒になったことがあり、酒の席で私的な話をしたこともある。さばさばとした女性という印象のある桜野のことを、緒方は気安く話を出来る若手の一人として捉えていた。
 一通りの社交辞令を交わしたあと、二人はその場の空席に腰をおろした。
「ところで、先生。中国には行かれたことありますよね?」
「そりゃ、何度かあるが」
「北京とか、お詳しいですか?」
「詳しい、と言えるかな。何度か行ったことはあるから、大体のイメージはあるが」
 緒方が言うと、桜野は「やっぱり訊いてみてよかったわぁ」と喜んでいた。
「先生、私、今度北京へ行くんです」
「それで?」
「良いお店とか、教えてもらえません?」
「どんな」
「そりゃ、お買い物できるところとか、美味しい食事の出来るところとか……」
「教えてやっても良いが」
 砕けた話題で緊張のほぐれてきた緒方は、ジャケットの内側から煙草を取り出した。
「一人で行くわけでもないんだろう?」
「そりゃあそうですよ」
「誰とだ?教えてくれるなら、こっちでも情報提供してやるよ」
 意味ありげに笑いながらそう言うと、桜野は「もう、先生ったら」と、軽く腕を叩く。
「友達同士なのか」
 桜野は「友達と言えなくはないんですけど」と、おかしな答え方をした。
「実は仕事がらみで、女は私一人だけなんです。あとはほとんど冴えない男ばっかりで、つまんないから一人で遊んでこようかな、って、思っていて……」
「仕事?」
 棋院の関係で、中国に関する何かがあっただろうか、と、緒方は思い出してみた。
「九星会の企画で、中国棋院へ親善試合に行くんです」
「それじゃあ、成澤先生も?」
 成澤は国内での若手育成に励む一方で、他国の棋院などとの交流にも熱心に取り組んできていた。中国棋院との親善も、初めてではないはずだった。
「今のところは、成澤先生が団長なんですけれど……」
 桜野は心配そうな表情を見せていた。
「成澤先生、具合が良くないのか?」
「今年の冬は、結構冷え込んだんで、腰の調子はあまり良くなかったみたいですね。教室には普通に顔を出してたんですけど」
「ふうん」
 緒方は以前顔をあわせた際の成澤のことを思い出していた。成澤とも結局あれきりである。
「それで、何時行くんだ?」
「ええと、……ゴールデンウィークのあたりですね。二泊三日」
「なんだ、まだ間があるじゃないか」
「そうなんです。でも、先生なら私の知りたい情報、お持ちかなぁと思って……。なかなかお会いできないですから、つい」
「とりあえず、話は東京に戻ってからだな。ガイドブックもあったかも知れないから、探してみてやるよ」
 桜野は喜色満面で「よろしくお願いしまぁす」と、言った。
「ところで、どんなメンバーで行くんだ?プロ中心なのか?九星会の子供が中心なのか?」
「参加者としていま名前が挙げられているのはプロばかりなんです」
「そうか。まあ、がんばって」
 緒方は腰を上げた。
「頃合いを見て、こっちから連絡するよ。……それじゃあ、明日はよろしく」
 桜野は頭を下げ、彼を見送っていた。