key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

『遠い星・4』

 緒方が初めて成澤と親しく話をしたのは、成澤の還暦を祝う会でのことだった。碁界の功労者である成澤の為に、同門の弟子達と同期の棋士たちが開いた祝賀会で、緒方はその時、師・塔矢行洋の代理として、明子夫人を伴っての出席だった。
 緒方がプロになった頃には、成澤はもう既に引退してかなりの年月が経っていたため、成澤と面識はなかったが、師からよく話は聞いていた。塔矢行洋は成澤がまだ現役のプロ棋士であった頃に面倒を見てもらっていたらしく、また、成澤の引退後の活動も高く評価していたようだった。その他に緒方は院生時代に九星会所属の仲間との付き合いもあり、折に触れ、成澤の噂を聞く機会があったのである。
 ともあれ、その時に行洋の代理として出席をしていた彼は、その役割を果たすべく、成澤に挨拶をしにいった。
 「腰の低い人だな」というのが、緒方の第一印象だった。
 彼はその頃九段に昇段したばかりで、成績は悪くなかったが、まだそれほど目立つ存在ではなかった。その彼に対して成澤は、「お噂はかねがね伺っています。お会いできて光栄です」と、柔らかな笑みを浮かべながら言い、さりげなく握手を求めてきた。
 成人していたとはいえ、意気盛んで、ややもすると生意気にもとらえられがちだった当時の緒方も、それには自然と恐縮させられた。
 彼は珍しく言葉につまりそうになりながら、成澤に祝辞を述べ、自分が塔矢行洋の代理であることや、行洋からの伝言などを伝え、横にいた明子夫人を紹介した。
 夫人と談笑をする成澤を緒方は観察していた。
 成澤は穏やかな外見ながら、現役当時は技巧派で、押しの強い碁を打つので、若い頃の行洋も随分と悩まされ、また、多くのことを教わったという話であった。
「緒方九段は、長谷くんや水野くんはご存じでしょうか」
「あ、……はい」
 遙かに年上の成澤から敬語を使われ、緒方も一瞬ドキリとしてしまった。長谷も水野も院生時代の仲間だ。知らないわけがない。
「二人とも僕の教え子ですが。彼等がよく緒方九段の話をしていましてね。僕も一度お会いしたいと思っていたんです」
「こちらこそ、成澤先生のお話は、塔矢先生から伺っておりました」
 緒方が言うと、成澤は「恥ずかしいな」と笑っていた。
「九星会出身の皆さんは、綺麗な碁を打たれますから、私もぜひ一度ご指導願いたいと思っておりました」
「いや、僕などはもう」
 成澤はそう言うと、更に笑った。
「日頃から塔矢先生の指導を受けていらっしゃるのであれば、僕の碁などは、もう古い碁だから。物足りなく思われるでしょう」
 社交辞令ではなく、成澤は緒方の最近の戦績などをよく知っているようだった。いつもなら師の代役もそつなくこなす彼だったが、その時には、物腰柔らかな成澤にかえって調子を狂わされてしまったようだった。
「門下に拘らず、研究会にも熱心だというお話ですが」
「ええ」
「子ども達の指導などには、まだあまり関心も持たれないでしょうね」
 緒方は何とも答えられなかった。そのとおりだったが、まさかそれを肯定するわけにもいかない。
「もしお時間があったら、一度九星会の方にもいらして下さい。お話を伺えたら、子ども達のよい励みになると思いますので」
 成澤はそう言うと、名刺を取り出した。名前の下に、自宅の住所と電話番号が書かれてある。
「ご存じかも知れませんが、その住所の同じ敷地内に教室がありますので」
 ふと見回すと、周囲には彼等に続いて成澤に祝辞を述べたそうにしている棋士たちの姿が見えた。緒方は「ではその内是非」と、返すと、深々と礼をして、成澤の前を辞した。
 緒方は帰宅するとスーツの内ポケットから即座に成澤の名刺を持ちだし、目立つ場所に貼り付けておいた。
 彼が成澤の所へ電話をしたのは、それから二週間ほど後のことだった。

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先が長いなぁ……。