key of life

BL小説を書いたりしている江渡晴美の日記です。

指輪・3

「どうしたの。それ」
 唐突にそう問われて、「え?」と顔を上げた。
「それさ」
 その人の人差し指は、オレの左手の薬指を指している。
「水くさいな。結婚したなら、ひとこと報告してくれればいいのに。……ていうか、君にそんな関係の人がいたのも知らなかったよ。オレ」
 明るい表情でそんなことを言われ、ただ悲しい気分になり、言葉もなくしてしまった。オレはそっと右手を左手に重ねた。もう、これをしていることが当たり前になってしまって、はずすことに頭が回らなかった。不覚だった。よりによって、この人の所へ来るのに、指輪をはずすのを忘れていたなんて。
 これは嘘なんです。
 ずっとあなたのことだけを思い続けているのに、結婚なんてするわけがないじゃないですか。これはただの飾り。魔除けなんです。
 そう大声で言えたらどんなにいいだろうか。
「ごめん。苛めるつもりじゃなかったんだけど」
「……え?」
「そんな悲しそうな顔して」
 知らないうちに気持ちが表情に出てしまっていたらしい。口の端を強いて上げるようにして、「悲しくなんか、ないですよ」と、答えた。
「また、いつもの冗談なんでしょ?」
 そう問いかけると、彼の目が「そうだ」と答える。オレが微笑んだので、安心したようだった。
 どう答えたらいいだろう。迷う。
 あの人がこの指輪をくれた時に言っていたように、適当な相手と言い訳をでっち上げてしまうのがいいのだろうか。それとも、カモフラージュだと言うことだけ告げるべきなのか。オレは逡巡しつつ、彼の顔を見つめていた。
 きっとオレが嘘をついても、この人は見破ってしまうだろう。これまでオレがこの人に隠し事を出来た試しはない。いつもオレは愚かで、この人は賢いのだ。出会った始めからそうだったし、オレはそう言うこの人が好きになった。
「隠さなくてもいいよ」
 彼はしみじみとした口調で「なんだか寂しいなぁ」と、言うと、重ねたままのオレの右手をはずした。
「でも、君ももう結婚してもおかしくない年なんだよな。ほら、前に君がここに連れてきた彼も、結婚したんだろう?この間」
「……」
「オレもいい年なんだよな」
 そんな風に言わないで欲しい。なんだか、総てが終わってしまいそうな予感がしそうになる。
 この人と終わることのない関係になりたいと思ったから、オレは道をはずす決意をし、あの人に無理な願い事をしたのだ。こんな小さなものの一つで終わられてたまるものかと思う。
 ”嘘をつく時には――。”
 不意にあの人の言葉が脳裏をよぎった。
 ”嘘をつく時には、本当のことをいくらか混ぜておくんだ。そうすれば、ばれる確率は低くなる”
 あれは何の話をしていた時だっただろう。いつかの寝物語であったと思う。
 今オレが語れることは、限られている。真っ赤な嘘がつけない相手なら、自ずと話す内容は決まってくる。
 オレは決意をして、口を開いた。
「嘘なんです。これ」
「え?」
 今度は彼の方が驚いていた。
「先輩からアドバイスされて……。本当に、オレもいい年だから、いろいろ聞かれるのが面倒になってきて。これしていれば、ピタッと聞かれなくなるからって。それで」
 あの人の手が、さわさわとオレの左手を撫でるように動く。その動きに思わずうっとりしそうになる。これが、愛撫ならいいのに、と。
「そうなのか」
 敏感な指の股のあたりに触れられて、抱きついてしまいたくなる。オレはその衝動にただひたすら耐えた。
「じゃあ、これは自分で買ったの?」
「……もらいました」
「誰から?」
 彼に触れられていることに恍惚としそうなオレは、上手い嘘を考える余裕がなかった。
「……先輩から」
「アドバイスしてくれた?」
「ええ」
「これ、本物か?」
「その人、離婚した人で。もう要らないからって」
 いいながら、あの人の顔を思い出す。このくらいの小さな嘘なら大丈夫、許してもらえるだろうと思った。
 「随分気前がいいな」と呟いた彼の無骨な指が、ゆっくりと薬指から指輪をはずす。彼は内側を覗き込んでいた。
「”StoS”って……」
 そう呟いたあと、彼は笑った。
「イニシャルまで合ってる。すごいな」
 もうとうに彼の指は外れているのに、まだ動揺していた。目がチカチカするような気がする。オレは瞬きしたい衝動を抑え、「偶然です」と、答えた。
「でもなんだかホッとしたな」
 彼が言う。
「しませんよ。結婚」
「おい、そんなこと言ってもいいのか?」
 オレはただ笑った。彼も笑った。
「ああ、これ、返すな」
 彼はそう言うと、元通り左手の薬指に指輪を嵌めた。
 何気ない仕草だったが、胸が一杯になりそうだった。
 誰とも結婚なんかしない。他の誰にも愛を捧げる気はないし、いくつもの嘘をつき通せるほど器用な人間でもない。それは自分でよく解っている。
 指輪を嵌めた指は、そのまま離れた。
 そのことに落胆する自分がいることに気付き、内心、自身を叱咤する。
 そのまま頬を触れ合わせ、唇を重ねるなどということは、ありえないのだと。少なくとも、この人とは絶対にそれはない。いや、この人とは、絶対にそうはしないのだ。
 そう、言い聞かせるように考えていたら、無性にあの人に会いたくなった。
 成田に着いたら、あの人に電話をしようと思った。
 甘えたふりをして迎えに来てもらって、少しだけ泣かせてもらおう、と。